過去を顧みて

過去を顧みて

白山三業株式会社取締役兼支配人 島田豊三

当会社の創立者は前社長故秋本鉄五郎氏であった。 氏は明治三十九年以来三業指定地の詐可を其筋に出願する事七八回、 明治四十五年漸く許可されたのであるが、組合組織後直ちに御大喪に遭遇し、先進各花街でさへ経営難に陷った位であったから、生れた詐りの当三業の芽立つ筈はなく、秋本氏始め各重役当業者は非当の苦しみを嘗めたのであった。斯ては自滅するの外なしと重役及営業者一同金力を傾注して大正博覧会に公開出演を為し、漸く一般から其存在を認められ、其後大正五、六、七、八年の好況時代の潮沈に棹して、一躍芸妓屋八十軒、芸妓三百五十余名を算するの盛況を呈し、一時は非常の幸運に恵まれ爾来順調に営業を続けたのである。震災後罹災地花柳界の復興すると同時に、設備万端非常に面目を改め、当三業地に比すれば遥に優れるものがあり、当三業地は稍々劣れるの観あり、平和の間に辛うじて他の花街に落伍せずに年を経、大正十三年創立者の秋本氏世を去ってからは糸居銀一郎氏と現社長秋本平十郎氏の合議制を以て、凡ての事を処理し来ったのである。其後糸居氏も逝去したるを以て秋本平十郎氏社長となり、現在に至ったのである。之より先き大正十年に制度改正の事に就き、意見の相違を来し、多少の紛擾を見た事があった位で別条なく、其後極めて平和に営業を続けて行ける処は、此の土地が組織の上から言っても、平和の上から言っても、各花街羨望の的となって居るのは慶賀に堪えぬ次第である。之れ偏に先輩各重役諸氏が一致協力創立者の意を体して業務の発展を期し、至誠以て社務を処理される結果であると、不肖は実に感謝に堪えぬのである。尚三業組合を組織する最初の目的及理由としては指ヶ谷町は組合組織以前税金額が少なく、何処らかと言へば小石川区の厄介になること多かったので、此の辺を良くして発展せしむる事にあったのであるが、美事に初期の目的を達し、現在其担税額に於ても小石川区中指ヶ谷町は第一とも言ふ位の繁昌を来した事は当会社の誇りとするも敢て過言でないと信ずる。希くは今後本会社の末永く繁昌を来し、業者の益々発展せん事を祈って止まぬ次第である。

白山繁昌記

昭和七年十二月二十日印編

昭和七年十二月廿五日発行

定価金二円五拾銭

【不許複製】

編輯人 島田豊三

東京市小石川区指ヶ谷町百四十六番地

発行人秋本平十郎

東京市小石川区指ヶ谷町百三十三番地

印刷人 福田保一

東東市小石川区丸山町十一番地

印刷所 豊文社

東東市小石川区丸山町十一番地

発行所 白山三業株式会社

東京市小石川区指ヶ谷町百四十六番地