洲崎の栞

目次

目次 一、移転五十年祭に際して 二、遊女の略説...

移転五拾年祭に際して

移転五拾年祭に際して 想ふに五拾年の歳月は決つして短いものではなく、 移転当時の鼻垂小供も今はの老人になつて居る、...

遊女の略説

遊女の略説 我が国に遊女と曰ふものが初めて文献に顕れたのは人皇第四十五代聖武天皇の御代であるが其の前にも勿論あつた。 其の時代には遊君又は遊裙と曰うて酒間をあつせんした。...

遊廓を貸座敷と改称

遊廓を貸座敷と改称 話は横道に這入るか遊女屋即ち遊廓と曰ふ名称が貸座敷と代つた事を話すのも無駄でなからうと思ふから茲に一寸話をする、 遊廓と云ふ名称が貸座敷と代つたのは奴隷解放事件から来た、...

娼妓取締規則の制定

娼妓取締規則の制定 明治五年の解放令後東京府は警保寮と合議の上左の府令を発した 府令第百四十五号...

洲崎の移転

洲崎の移転 洲崎は明治二十一年六月本郷根津より移転したもので東京市最東端の埋立地である。 此の埋立は市制施行以前であつて、東京府が計画し佃島の監獄から囚人を連れて来て埋立たもので明治二十一年に竣工した。市制施行と共に市長の管理となり借地料を定められた。...

洲崎の災害

洲崎の災害 洲崎の地は海岸に接して居る為め度々の海嘯に逢ひ数度の大火に遭遇して居る、寛政三年九月四日の海嘯には相当の損害があつた為めに徳川幕府は其の附近一帯に居住を禁じた。 洲崎遊廓移転後に於ける災害の状況を見るに...

移転後の状況

移転後の状況 移転当時に於ける警察署の記録には貸座敷九十七戸、引手茶屋三十戸とあるも明治二十一年六月二十一日出版の洲崎弁天町遊廓真図なる錦書によれば貸座敷に大八幡を筆頭に百十一軒、引手茶屋四十四軒である。 其の後十五年を経たる明治三十五年には一号地に百三軒二号地に井筒楼初め八戸あり、引手茶屋は依然として四十四軒あつか。...

洲崎の交通関係

洲崎の交通関係 洲崎は前にも述べた通り東京市最東端に埋立をした場所であつた 関係上其の当時のさむしさは今日では殆んど想像が出来ない。...

娼妓の待過

娼妓の待過 現今の娼妓は昔日と異り人権を認め権利を尊重し 所謂人身売買の悪弊より全く脱脚し真に独立した稼業との見解を強め...