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大森海岸
京浜国道に沿ふて、「大井」花街から引つゞき西方へ伸びてゐる一廓、電車の便は京浜電車の「大森海岸」又は「大森八幡」が最も近く、花街の名は「大森海岸」だが実際は入新井町一丁目に属してゐる。
この方面では品川に次ぐ古い花街、と言つても勿論品川花街に比しては比較にならぬ程新らしく、日露戦争の一寸以前からぼつヽ始まつたもので、遊芸師匠を花街の元祖とし、大井の一角に出現した砂風呂を主なる出先きとして急テンポの発達を遂げ、昭和二年の四月迄は二百七八十名から三百名の芸妓を擁して、すばらしい繁昌ぶりを見せてゐたものだが、大井花街の独立と同時に出先を半滅され、従つて芸妓の数も今日はぐつと滅つて、
芸妓屋三十四五軒。 芸妓の総数百三十名(内一割が小芸妓)。
出先 料理専業十二軒。 料理旅館五軒。 待合十九軒。
といふのが、数字から見た今日の「大森海岸」花街である。
料亭、待合の主なるもの
料理専業では昔ながらの「松浅」本・支店。 料理旅館では一現、松園。 待合では楽々、うち、夢の里、福利。
「うち」は元の歌茶屋で、烏森の湖月の経営に移つてから今の名に変つたのであるが、二十畳敷の応接室は恰かもダンス・ホール代用のかたちで一異彩を放ち、楽々、夢の里は所謂「一室一風呂」の設備にこの里の特色を発揮してゐるが、尚ほ目下建築中である福利別館は、その建坪四百坪、地階全部をダンスホールに充てゝダンスホールから東京湾を越えて房総の連山を望まうといふ趣向、これが出来あがつたら又ひとつ此里に名物がふえる訳である。
遊興制度
芸妓は時間制度で最初一座敷は二時間、大芸妓三円五十銭、小芸妓二円七十銭。 爾後一時間を増す毎に大芸妓一円五十銭、小芸妓一円三十銭。 お約束二時間)は大小共に一円増しで、即ち略大井花街に同じ。 遠出は一昼夜三十円。
待合の席料は一円、一円半、二円、二円半。 設備は頗る整つてゐるが三円とるところは滅多にない。
花街情調
『大森海岸は鯉家の花街だ』と通人の間に定評されてゐる通り、鯉家は当花街の草分で、全盛時代には二十余軒の分家を有して勢力を張つてゐた、今日も尚はその本家には三十七八名の芸妓を抱えてる外、初鯉家、吉鯉家、〆鯉家、清鯉家、若鯉家、清吉鯉家、政金鯉家、浜永鯉家、染喜久鯉家、勝鯉家、〆初鯉家、鐘鯉家等多数の分家を有し、総数の過半を鯉家一門で占めてゐる。
それにお婆さん芸妓の多いことを亦此花街の一名物で、今年の春芸妓組合で二十年以上勤続の老妓表彰の議が起つて調査したところ、その数が余りに多く、不景気の折柄到底その経費の出所がないといふので、無期延期になつた位古参芸妓の多い士地である。
従つて、と云つては悪いが大井、海岸、大森新地とこの三花街を比較して見るに、何と言つても一番芸ごとに力を入れるのは此土地で、芸妓総数の五割以上はお泊りをしないといふのも此の土地を除いては無いことだ。 二十年一日のごとく抱えで收まつてるいゝお婆さん連、いゝ加滅に何とかならんかヤイと言ひたくなるのも此の土地である。 然しそこに又、わき土地では到底味はへない一種の花街情調がないでもない。
特有の歌謡
北原白秋作るところの「大森海岸小唄」がある、作曲町田嘉章、振付花柳壽太郎。
沖はトントン遠浅、しびには海苔よ、チララ、サララ、トントン
うしろ見かへりや、ホホホーイ、富士の山。 ホホホーイ、見かへりやふじの山。
噺子「大森海岸柵づくり、さらりとお舟で、漕いだヾ。 」
はるか彼方は、上総に安房よ、いつも向ふ地、なぜかすむ。 (以下囃子同じ)
汐干汐干とどこまで行たぞ、いまは月夜の、潮の音。
立つな朝霧ほのヾ夜明け、ぬしの飛行機、二つばね。
夜目で見たのは気強い若衆、待てと誰が言ふた、鈴ヶ森。
外に「海苔の香」といふ小唄もある。 おもへばこのあたりは浅草海苔の本場であつた。