新宿

場処

四谷区新宿二丁目の北裏一円の地域。 市街電車は新宿線の「新宿三丁目」停留場下車、電車通を北へ曲ればすぐ遊廓で、省線電車ならば「新宿」駅表口から市街電車路に沿ふて徒歩約三丁。

娼妓本位の遊廓地帯で大正の初頭までは電車通に軒をつらねて居つたが、風紀上にも市街の面目上にも宜しくないとあつて現在の処に替地を給せられ、全たく移転を終つたのは大正十年頃であつた。 そこは往時の甲州街道に当り、江戸西口の宿場女郎として、東海道口の品川、中仙道口の板橋、奥羽街道口の千住などゝ同じ径路を取つて発達した廓で、宝暦十三年版の志道軒伝に已に岡場所として記載せられ、深川・品川と共に稍遊里の形を備ふと記されてゐる。 享保年間に一度廃止されたが安永の初年再び許可せられ、表面は宿屋渡世といふことにして貸座敷五十二軒抱女百五十人と註された。 江戸名所図会には此の廓の光景が二枚開きの挿絵となつて面白く描かれてゐる。

花のお江戸のその傍らに、さても珍らし新宿噺。 所は四谷の新宿町の、紺の暖簾に桔梗の紋よ、音に名だかい橋本屋とて、数多女郎衆のあるその中に、お職女郎の白絲ござれ、年は十九で当世育ち、愛嬌よければ皆様よ、我もヽと名指であがる。 わけてお客はどなたと聞けば、春は花咲く青山辺に、鈴木主水といふ士は、女房持つて二人の子供、二人子供のそのある中に、今日も明日もと女郎買ひなさる……………。 河内音頭くどき唄。

鈴木主水と樓本屋の情話は、古来頗ぶる人口に膾炙したローマンスであつた。

今回の新宿遊廓

貸座敷五十軒。 娼妓五百人、芸妓屋九軒。 芸妓 約二十人。

此の廓へ来て芸妓を上げて遊ぶやうな客は甚だすくない、どうかすると『へえ新宿にも芸妓が居るのかえ?滅多に絃の音なんぞ聴いたことは無いやうだが』と言ふ者さへあるが、数は少いけれども兎に角居ることは居るのであつて、而も貸座敷、料理店、芸妓屋が株主となつて「新柳株式会社」といふ会社組織である。

料亭の主なるもの 

甲州屋、宝亭、朝日屋、二葉屋、藤川亭、福壽。

樓妓の主なるもの 

蓬莱樓。 勢州樓、鈴木樓、初勢州樓、新勢州樓。

此の廓の娼妓は福島県の産が首位を占め、次で宮城県。 東京以西の女は殆ど居ないと言ってよい。

遊興制度

芸妓の時間代は別表の通り。 娼妓の方は無論廻し制度で、玉代は普通の店で一等二円六十五銭、二等二円、三等一円八十銭、これに種々小物が附いて本部屋に入るとすれば八円十銭、それで丼一ツ或ひは酒一本がつく。 但し夜十一時過ぎなれば最低一円五十銭で泊めるさうである。 酒の相場は月桂冠とレツテルのある四合瓶が一本一円四十五銭。

「新宿情調」として特に記すほどの気分もなく、又左程の馴染も此の廓に持つてゐないが、直ぐ近くを電車や自動車が引きり無しに往来してゐる所為か、始終そわヽとして落付のない廓で、漸やく電車の軋音が止んだかとおもへば省線を貨物列車が轟々の響きを立てゝ突貫し来たり、突貫して去る、といふ有様である。