on
洲崎
深川区の南端洲崎弁天町にありて、背面は直ちに東京湾に臨んでゐる。 電車は早稲田—洲崎線の終点「洲崎」停留場下車、東京駅附近から約十五分間。 洲崎橋を渡れば即ち洲崎遊廓である。
根津遊廓の移転地
地域は正方形の五万坪、もと海であつたのを明治二十年五月埋立てゝ深川区に編入し、翌廿一年九月本郷の「根津遊廓」を移転したのである。 根津遊廓は慶応四年に設けられて以来其の時迄今の根津八重垣町、同須賀町辺にあつたもので、今日も尚彼の附近には見返り橋、手取橋、黄昏橋、藍染(逢初)川等艶めいた名を遺してゐる。
芸妓も居るけれども、寧ろ娼妓本位の所謂「遊廓」地帯で、吉原ほどに歴史的背景を有せず且つ土地が土地だけに、客は半纏着が多数を占めて居るやうである。
現在妓樓 二百五十軒。 娼妓約二千名。 引手茶屋 十余軒。
同芸妓屋 十九軒。 芸妓約四十名。
廓外には小料理屋も多少はあるが、特に記するに足らず、以上が即ち洲崎花街の構成分子である。
主なる妓樓
二百五十軒の妓樓中『茶屋受貸座敷』となつてゐるもの六軒、即ち
本金樓。 睛光樓。 平野樓。 中梅川樓。 本住樓。 藤春樓。
等で、この外には福井樓、浜住吉樓、末吉樓、金田樓、彦太樓、栄住樓、まづこゝらが此の廓での大店で、就中日本建築で立派なのは藤春樓を第一とし、栄住樓も落つきのある好い家、平野樓は一見病院かともおもはれる堂々たる西洋建築である、おそらく之れが当廓一の大妓樓であらう。
此廓には越後から東北地方産の女が多く、気が利かない代りに性質は概して温順で、丈は低いが肌は滑らか、皮下脂肪に富んだ肉感的な女が多いかとおもはれる。
遊興制度
震災前迄は、此地には関西流の揚屋式の家が若干あつて、廻し制度ばかりの東京諸遊廓中に一異彩を見せ、一部の人々には相当歓迎されて居たやうであつたが、矢張り東京の気風には合はぬのか、今日は全然影を消してしまつた。 前掲六軒の茶屋請貸座敷の外は直接登樓してよく、又茶屋受以外の樓と雖も引手茶屋から行くのに無諭さしつかえはない。 組合規定の娼妓玉代は一等四円、二等三円、三等二円となつてゐるが適用法は樓の格に依つて多少異なり、中位のところであれば五、六円で本部屋に入つて丼ぐらゐは出る筈である。 然し芸妓でも揚げて遊ばふとすれば、三十円位はかゝるであらう。
洲崎情調に就て或る通人の曰く、『吉原が窪んだ土地でありながら心持の明るいに引換へてこの廓は海を前に控へた割に感じの暗いところで、遊んでは、兎角理に落ちたがる。 品川は宿場の気分で海の寂寥が気にならないが、洲崎は非常にそれが気になる。 要するに寂しみの勝つた遊廓で、夏の遊廓、昼遊びの出来ないところ、若し昼のさ中に大きな妓妓の大広間に陣取り、芸妓幇間に座を持たせてゐた処で、何となく古寺の本堂で無理に騒いでゐるやうな心持ばかりして来る。 洲崎の昼はしんねこに限るといふのは、全たく粹人間の定則である。 遊びとしては初心の人のもてない場処、大通を気取る人にも持てない場処、只皮肉にゆく人の気に入るやうな妓は、蓋し此処の特徴かもしれぬ」と、妓といふのは勿論芸妓のことであらう。 洲崎について深く知る所のない私にはちよつと諒解し兼るやうな点もないではないが、兎に角海に突出した廓は夏の廓だ、夏の夕、彼のコンクリートの防波堤の上に立つてゐると、腹の臓腐まで冷切るほどに涼しい。 月の影を踏むには、ヨンクリ—卜の堤防は些か趣きに乏しい憾みはあるが、馴染の妓をつれて、海風を浴衣の袂にふくらませて酒の酔を醒ましてゐる姿は、この廓にのみ見られる風情であらう。