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吉原
浅草公園から北へ四五丁、浅草区の最北端に位して西南は千束町二三町目、北は下谷龍泉寺町に堺し、東は五十間町をへだてゝ所謂「日本堤」に対せるー割である。 市街電車は南千住線の「山谷町」下車、西へ約四丁で大門に達するが、三ノ輪線の「千束町」或ひは「龍泉寺町」等に下車してもよい。
省線(山手線)は鶯谷駅もつとも近い、円タクは市内どこからでも一円でよい。
本称「新吉原」略して「仲」。 「北廓」は即ちその別称であつて、清元の「北州」は吉原の景物を唄つた名曲であることは今更贅説するまでもあるまい。 その「北州」に、
日本づゝみを土手馬の、千里も一里かよひ来る……。
霞の衣えもん坂、衣紋つくらふ初買の、袂ゆたかに大門の、花の江戸町京町や……。
と唄はれた「日本堤」「衣紋坂」、その日本堤から衣紋坂をおりて大門の見返り柳までの「五十間道」などの名のみはなつかしく遺つて居るが、山谷堀から二挺立の駕籠で土手八丁を、次から次へと一列に飛んでゆく提灯の光り、衣紋坂を悠々緩歩してゆく編笠の武家衆すがた、さては見てくれがしの丹前姿を自慢の伊達衆が花の江戸町ゆかりの京町を、額に扇かざしつゝぶらりくと格子先きをたどると云つたやうな雅びた光景は、すでに六七十年前の夢と化し去り、五十間の両側は一列にバーやおでん屋となつて昔の編笠茶屋などはもはや影も形も認められない—と乙に悲歌慷慨するさへ実はくすぐつたい気のする時代だ。 昭和の代になつて、徒らに旧幕時代の古い情調をなつかしんだ所でどうなる。 円タクを飛ばせてゆく時代には矢張時代相応の情調を味ふより外に致し方がないではないか。 さう観念して了へば流石に、吉原は吉原だけの特殊のカラアもあり、まだ面白味もある花街なのである。
所謂五丁街
吉原の起原については芳町のところど述べた通り、元和三年今の日本橋区葭町附近葭蘆の茂つた荒蕪地を伐開き、遊女町を設けて吉原と呼んだのが濫觴で、次に明和三年六月現在の地に移転を命ぜられて「新吉原」となつたものであるが、同年正月所謂「明暦の大火」に一同焼出されてたばかりで、移転建築も捗々しく進行しがたい事情にあつた所から、家作普請の間は替地の近辺今戸村山谷・鳥越に於て借地して商売すること勝手たるべき旨を公許された為、いづれも附近の百姓家などを借入れて仮営業をはじめた。 往時吉原へゆくを山谷通ひと称し、猪牙船を山谷船など呼んだのはこゝから起つた語ださうである。
所謂五丁街といふは江戸町一、二丁目、京町一、二丁目、及び角町の五箇町を指せるもので、これは元吉原時代からの遺唱であるが、その名称の起因について「吉原大全」や「花街漫録」等の書に説くところに依れば、江戸町一丁目元吉原創設と同時に柳町(今日の道三町附近)に在つた娼家を引移した処で、大江戸繁昌の余沢に由り花街を設くるに至つた事を祝福して、斯くは名づけたものといふ
同二丁自は鎌倉河岸に在つた娼家の移転地で、それ等の娼家は徳川氏入府後駿府から引移つて来たものゝ一団であつた。 尚ほ本町東側の小路で俗に「伏見町」と称する一区は山城伏見或ひは泉州堺より来たれる娼家、又「堺町」と称するは寛永年間に至り府内各所に散在せるものを集めて新らしく収容した一割である。
角町
今の京橋区炭町に在つた娼家の移転地で、旧名を其のまゝ採つたもの。
京町一丁目
麹町にあつた娼家の移転地で、麹町の娼家は元京都から引移つて来たものであつた所から命名されたもの。
同二丁目
これは元吉原の創設後、その繁昌振りを聞いて上方から移つて来た傾城屋を収容した処で、俗に「新町」と呼んでゐた。
揚屋町は元吉原時代各地に錯居してゐた揚屋を一所に集めたところで、古い絵図を見ても此一割は揚屋ばかりである。
大門から真直ぐ突当りの水道尻に至る中央大通が所謂『柳さくらの伸之町』。 これは新吉原になつてできたもので、両側は軒並引手茶屋ばかり、よく芝居の舞台に取入れられてある華やかな場面であるが、今日は御覧の通り中央には桜ならぬ電柱ばかりが立並び、安普請の引手茶屋の間には自動車屋などが割込んで、彌が上にも美観を損ねてゐる。
大門入口の所を「肴市場」、仲之町と角町及び揚屋町との十字路を「待合の辻」、角町の南方を「羅生門河岸」京町二丁目の北側を「七軒」又は「三日月長屋」、その他九軒、十二軒、六軒或ひは横町等々いろヽと俗称もあるが、一般嫖客には左まで必要もなからうし、書物などで おぼえて通がられては吉原が泣くであらう。
今日の吉原
震災前の盛観に迄復活するには前途尚ほ若干の時日を要するらしく、大阪の飛田・名古屋の中村等に比し外観に於て遜色あるを免れぬ上に、不景気々々々の嘆声に搗て加へて公娼廃止の叫び喧しき折柄、一般世人からは吉原の前途すこぶる悲観されて居るに拘らず、土地の人達は却つて楽観してゐるのはおもしろい。
現在貸座敷 二百九十五軒。
同娼妓 二千四百六十九人。 (昭和四年三月調)
引手茶屋 四十三軒。
芸妓 大小百五十五人。 幇間二十七人。
数に於ても、内容に於ても、依然本廓としての代表権を把握してゐるところは流石に吉原である。
主なる妓樓
所謂大まがきといふは角海老、稲本、大文字、不二樓の四軒で、これが先づ吉原の代表的貸座敷。
しかし何れもまだ本建築でなく、何となく一種の寂し味を感せしめる、例へば以前堂々たる洋館で異彩を放つてゐた大文字樓が、写真で御覧の通りのつゝましやかな平家建、だが格子の 前に積桶などしたあたりは却つてむかしの吉原風景をしのばしめるものがある。
元来が貸座敷に西洋建築などは余計なことなのである。
「中店といふ名称は今は無くなつたが、此の四軒に次ぐ樓は河内樓、宝来樓、彦多樓、成八幡、君津樓、辰稲弁、三河樓などいふところであらう。
引手茶屋では例の山口巴、青柳をはじめ大忠、竹治、若水、丸小尾張、細見蔦屋など名の聞こえた家で、且ついづれも二三百年引つゞいてゐる旧家である。
芸妓と問
芸妓は「仲之町」と「京町」(一名横町)の。 二派に別れ、伸之町が約八十名。 京町の方に三四十名居るが、吉原芸妓といふは勿諭仲之町芸妓を指すので大店へ出入する芸妓は此の方に限られてゐる。 が、さすがは場処柄だ横町芸妓にもなかヽ芸の達者なのが居る。 —同時に此地も浮世で時代の風は吹く、若い妓には近来相当うつくしいのが居て、廓芸妓の孕んだ噂さなどを聞くこともないではない、芸妓は女なるが故に……。
名妓と云はれるおなつ、おさだ、倶に未だ健在。 たしか最早六十を越して居る筈だが矍鑠として壮者を凌ぐ元気、且つ彌よ渋味を帯びて来てゐる。 ともに吉原で生れたちやきヽの江戸ッ児で、お夏は五十間の畳屋の娘。 鼻なつと言はれる程特色ある鼻の所有者で、一中の名人である。 おさだの美声亦世人の熟知する所、これは偉大な体格の持主で、そのいなせな木遣姿などは、まさに昔語りにきく幡随院長兵衛の威風も斯くやと偲ばしめるものがある。
幇間の多いことも此の花街の特色で、善孝、善六はすでに在らず、今日は桜川三孝、正孝、松の家喜佐久、延孝、千代孝、忠七などの時代である。
客の居る間は幾時間でも「貰ひ」といふことがない。 小芸妓は玉一本廿銭で祝儀二円。 「約束」は午前十時から午後十二時迄が玉八本(三円廿銭)祝儀六円以上。 遠出のことを吉原では「外出」と称し、これ亦朝の十時から夜十二時までが玉九本祝儀六円以上といふ安くてそして稍漠然たる定である、六円以上といふのだから十円も十五円も祝儀を請求されるかとおもへば左にあらず、六円ぼつきりの事もあれば八円位請求されることもあるといふ程度で、それも茶屋の女将の手加減次第、別に芸妓の方から申し出る訳ではなく、至極のんびりとしたやり方である。 それ故いそがしい妓は「御挨拶」で稼ぐより外に途はない。
横町芸妓の方は玉一本卅銭(小芸妓二十銭)二時間を一座敷として玉四本、祝儀二円四十銭(小芸妓一円六十銭)、「出直り」は一時間二本、祝儀九十銭(小芸妓六十銭)の定で、此の方には「御挨拶」の制度はない。
尚此里は、午前二時迄は太鼓を入れ、三味線は夜つぴて弾いて騒いてもかまはない別世界である。
花街ロマンス
桜痴居士が「法事遊び」と称して、芸妓に悉く白無垢を着せ幇間の善孝を坊主に仕立てて、口々に『南無阿彌陀仏、々々々々々々』と念仏を唱へながら精進料理で酒を飲んだ話。 品川樓の花魁二代目清司が、初代清司の心中した室に入つて、その菩提を吊ふ為、背に南無阿彌陀仏、袖に塔婆、裾にしやれかうべ、木魚、鉦などを描いた白装束をして客を取つた話。 その他等々々、奇抜な遊びぶりに人の度瞻を抜いた花街挿話は、一冊の単行本にしても纏めきらぬ程沢山ある。
吉原名物
春の桜、夏の燈籠、秋の仁輪加、以上を三景容と称して、古来吉原の名物行事とされたもの、それが近年兎角すたれ勝であつたのも世人をして吉原の衰微を思はをる一原因だつたが、二三年前から七夕祭をやつたり、菊飾りをやつたり、三景容も漸次復活されて、復賑やかな昔の吉原が再現しさうである。
食物の名物−鈴らんの「鍋雑炊」。
吉原情調
更けて聞く新内の流しと、『火の用心』のシャリンヽといふ夜番の金捧の音。 寝ざめの床にしんみりとして嬉しきものは此二つである。
○京町の猫かよひけり揚屋町 基角
○吉原の仁輪加すぎたる夜寒かな 子規