on
向島
区域
本所向島町、長命寺附近から秋葉社の附近に至る一帯の地に散在する。市街電車は柳島線の「中ノ郷」或ひは「業平橋」などが最も近く、徒歩約十分間で逹するが、浅草雷門—須崎町間を運転してゐる隅田乗合自動車を利用するのが一番便利であらう。
向島といふ土地は、元来東京から芸妓をつれて遠出で遊びに行くところで、向島芸妓はその遠出の客の座敷に招ばれて徒然を取巻くために生れたものだ、甚だ映えない刺身のツマのやうな役目であるが、客種は概して選り抜きである、従つて芸妓にも相当妓品を要し芸を必要としたが、今日のやうに向島そのものが殺風景となつては、遠出の客などは月の中に指を折つて数へる位のもの、かうなると向島の花街は向島として地方客を吸集して自立するの外は無くなつた。
此地には旧来の向島芸妓の外に、あとから生れた安直主義の秋葉芸妓なる一派があり、組合も「向島劵」、にその向島劵から分離した「第一劵番」、及び「墨田劵」の三つにわかれてゐたが、墨田劵が又もや今年の八月両派に分れて目下ゴタヾの真つ只中。 で目下のところは芸妓屋料理屋、待合を各縦断して四派に分離し、有名な家は兎に角として、末派の料亭や待合にいたつては、どの家が何派に属するのか、フリの客には一切見当もつかないと云つたやうな次第で可なり厄介な花街である。 この四派を通算して、
現在芸妓屋 百十軒、芸妓 二百五十名。
料理店 二十余軒。 待合 約百軒。
正に群小割拠、戦国時代を彷彿せしめる現状であるが、昨今当地花街の名物とされてゐるものは「ダンス芸妓」の全盛ぷりで、ダンス芸妓と名乗るものが約四十名も居つて、これに「振袖ダンス」「洋装ダンス」の二種あり、それぐ百パーセントのエロ気分を発散させてゐるといふことである。
料亭の主なるもの
水神の「八百松」をはじめ『入金』「長月」「水の登」「鳥安」「大松」及び支那料理の「もみぢ」。
待合の主なるもの
松みどり、梅川、住もと、松葉家、ふみ本、田毎などいふ所か。 尚ほ待合の中に狐「けん」といふ家があるが、それが昔の「きつねけん」でないことは言ふまでもない。
向島情調なる程歌沢の夕立にきつねけんが唄はれ、端唄の五月雨に水神の離れ座敷が絃に乗つた頃の雅趣は到底、今日の向島には望まれない。 それでも、水神などは未だ兎に角捨てがたい趣はあつて、下町からの連込には随一の家であらう。 何んと言つても矢張り隅田川を控へてゐるだけに、水神附近は勿論、大倉堀の待合あたりの夜の風致には、さすがに捨てがたい味がある。 夜の入金、弘福寺あたりの情景も川の此方の花街には無いところだ。 隅田川は対岸の浅草から暮れ初める、観音堂の甍・五重の塔が先づ夕闇に掻消されて、待乳山が水に沈むと、花川戸、今戸、橋場にぽつりぽつりとつく燈火、しづかに水に映り水に流れる美しさは、この花街の生命である。 柳橋の代地河岸から対岸に肥料倉庫の群を眺めてゐる趣とはちよつと違つて夜の向島は未だ全く亡びたりとは云へない。
向島名物
八百松の蜆汁に焼鳥、雲げしき。 それから夏の蚊。 もう一つ逸してならぬものに入金の女将おきんさんがあつた、所調東京三「おきん」の随一で、以前枕橋に長月の女将おてふさんと一緒に女中をして居たものだが、愛嬌・人情・度胸の三拍子そろつた一種の女傑、今日の入金を独力で築き上げ、政界実業界の名士筋に御ひいきが多かつたが、今年の九月下旬遂に亡くなり、向島一入落莫の観がある。