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新富町
区域
京橋区新富町一、二、四、五、六、七丁目から築地一、二、三丁目に亙る間で、新橋芸妓の出先きである築地木挽町と地を接してゐる。
新島原遊廊の跡
新富町花街の沿革はちよつと面白いものがある。 即ち此あたりは旧幕時代膳所藩邸・彦根藩の別邸などのあつた処であるが、明治元年築地に外国人居留地を開くと同時に、互市場の繁栄を助ける目的の下に、こゝに新たに遊廓をつくつて「新島原」と命名し、廓内を八重咲町、千歳町、青柳町、初音町、松ヶ枝町、呉竹町、桜木町、及び花園町の九ヶ町に割付けた、それを現在の地名に割当てゝ見ると
八重咲町—新富町一丁目。 梅ヶ枝町—新富町二丁目。 呉竹町及青柳町一二丁目—新富町三丁目。 初音町一二丁目—新富町四丁目。 花園町—新富町五丁目。 桜木町及び千歳町—新富町六丁目。 松ヶ枝町—新富町七丁目。
即ち略今日の吉原遊廓に匹敵するほどの大規模のものであつたが、帰期した築地互市場の発達思はしからず、明治四年八月これを撤廃して吉原に合併し、その跡地に隣接大富町の一部を編入して、新島原の新と大富町の富を取つて「新富町」と命名の上市街地とした。 その時廓芸妓の一部は尚旧地に踏止まつて御神燈を掲げ、わづかに余喘を保つてゐた処に、劇場新富座ができてから俄かに活気を帯び、「櫓下芸妓」の名は市内に喧伝さるゝに至つたのである。
今日の新富町
芸妓屋 六十六軒。 芸妓 百八十名。 料亭 六軒。 待合 六十余軒。
主なる料亭
万安樓、躍金、松しま。
主なる待合
荒井家、国の家、染の家、浜川、近江家、米春。
百合の花の露にうなだれたる、しかも些か寂しげに見える所は、山百合のそれにも似たるが新富町の芸妓である。 と云つた人があるが吾輩その当否をしらず、此地で私の知つてるのは万安くらゐのもので、以前は万安へは新橋の芸妓が入つたため、気の利いた宴会には大抵新橋がやつてくるし、時たま自分で遊びに行つた場合も曾て此地の芸妓を招ばふとしなかつた、故に新富町に遊べども新富町芸妓を識らずである。
万安は元来会席料理でしんねこには向かない、料理は論ずるに足らず酒もよくなかつたが、たしか伊達若狭守か誰れかの邸跡で、その庭だけは東京の料亭を通じての万安であつた。 但し震災後はどうなつて居るか、一度行つたが夜遅かつたし月も無かつたので、庭を見てくることを忘れてしまつた。 元の渡辺銀行の頭取渡辺治右衛門氏はこの万安を根城として、盛んに此の地で発展したもので、渡辺一門がこの花街に落した金は蓋し少い額では無かつたらう。 それで渡辺銀行が閉鎖されたとき、『新富町芸妓渡辺銀行を漬す』などゝ口善悪なき童どもは陰口したものだが、事実彼の頃の新富町花街は一時火の消えたやうな寂しさであつた。
芸妓代は別表の通り、別祝儀の利く妓は大抵五円、七円、十円といふ所で、交渉は比較的簡単につくといふ話。 この花街にしては相場が安い。