烏森

区域

芝区烏森町一円の地。省線「新橋」駅の裏口(北口)を一歩踏出をば即ち烏森の花街で、駅のプラットホームから眼下に鳥瞰される。

別称「新橋南地」、新橋川一すじを隔てゝ新橋花街と殆んど地を接してゐる。ちよつとをかしく感ぜられるのは此地の組合の名を「新橋三業組合」と称することだが、説明をきいて見れば新橋は自分の方が本家で、所謂「新橋」は後に生れた花街だといふのである。なる程烏森に花街のあつたは宝暦頃からのことで、風来山人の志道軒伝にも土橋附近に岡場所のあることが記されてゐる。此花街が繁昌し始めたのは明治の初年、西郷南洲翁を取巻く軍人連の根城となつたがためで、「髯の中将」で鳴らした比志島義輝将軍(維新当時、武官中唯一の蓄髯家であつた)は此地の美妓お雲と恋に陥ち、遂に落籍して夫人とした、それがたゝりで同僚は皆な男爵・子爵と華族に列せられた間に、髯の中将のみは愛人のために華族を棒に振つてしまつたといふやうなローマンスを遺してゐる。

しかし唯だ新橋といへば無論北地のことで、誰だつて烏森のことだとはおもはない。

もと組合が芸妓組合と二業(料理待合)の二つに分れて居つて、よくごたくを起した花街で、烏森芸妓は挙つて北地へ出稼ぎをなし、烏森の料亭や待合から烏森芸妓を招ぶと「遠出」になるといふやうな滑稽なこともあつたが、数年前から三業合同して組合をつくり、今日は湖月を頭取、玉家を副頭取に推して至極円満にやつて居るのは、目出度し。

今日の烏森

芸妓屋 八十三軒。芸妓 二百五十名。封間 六名。

料理店 九軒。待合 九十軒。

主なる料亭

区画整理も済み新築も成つて、見ちがへる程綺麗な花街となつた。何と云つてもこゝでは湖月が光一で、烏森の宴会といへば大抵此家と極つてゐたが、最近料理をやめて待合となり、しかも「カフヱ式待合」にする由で、目下改築工事中である。湖月なきあとの料亭としては「古今亭」で、近頃めつきり好くなつた。その他海月、浜の家(鳥料理)末げん(同上)梅の井(蒲焼)等であらう。

主なる待合

湖月、蝶々、岡田、桝田家、新し家、森田家、晴月、住よし等。

本住吉、相模家の二軒は新橋芸妓の出先きで、こゝの芸妓をよぶと遠出になる。

遊興制度

時間制度で二時間を以て一座敷とし、その芸妓代は別表の通りだがこゝには他の花街の如く「一時間増し」の制なく凡て二時間単位となつてゐるから、三時間でも四時間分、五時間ならば六時間分を支払はなければならぬ。

別祝儀は三流四流どころならば十円乃至二十円。高いのは三百円位まであるがそれも若い妓に限り、一二流となると流石に金では動かぬのが多い。

要するに此地は新橋の分店のやうな花街で、分店は畢竟分店だけのものであるが、北地に負けまいといふ意地があつて、芸事にはなかく熱心で、且つ品位も相当維持されてゐる。