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講武所
区域
神田明神裏手の台地から崖下の神田同朋町、台所町、旅籠町にかけた一円の地で、市街電車は芝大門—駒込橋、東京駅—駒込橋及び三田—吾妻橋、以上各線に依って「松住町」停留場下車、一丁乃至四丁の距離。
講武所の今昔
此地を「講武所」と呼ぶ所以は安政年間幕府が鉄砲洲に講武所を設置した際、当時加賀ッ原と呼ばれた今の紳田旅籠町三丁目に、その附属地を設けたに始まるもので、尚ほ近くのお茶の水には聖堂があって、旗本の二男三男といふところが講武所や聖堂の帰りに此地で遊んだのが花街発展の原因となり、後には講武所へゆくと称して家を出ては花街に耽溺してゐるやうなデカダン組も相当多かったらしい。兎に角旗本の有閑徒弟に依って発達した花街である上に、意気と張で鳴った神田ッ児の本場で、今日も尚ほ多町あたりの客が相当に入込む関係か里は狹いが所調江戸情調といふか、一寸おもしろい気分の花街である。
今日の講武所
芸妓屋五十五軒。芸妓約百三、四十名。幇間一名。
料理店 十軒(代表的な家は開華樓、花家)。
待合 二十一軒(主なるもの、つぼね、かつのや、きん絲、武村、しげの家、金柳等)。
「お山」といへば明神裏の開華樓のこと。で、徙崖に倚つて付樓を構へ、東京市街の約半分を一望に見おろす夜の景色の美くしさ、夏の夕の涼しさは、東京でもちよっと他に類はあるまい。こゝも時間制度で芸妓代は別表の通り。別祝儀の利くのは無論二流以下であるが其料金は最低五円、中位十円、最高十五円。今日でも是れ位は出さねばならない。