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白山
区域
小石川区指ヶ谷町を本拠として八千代町の一部に亙る。 市街電車は三田・巣鴨線の「八千代町」又は「指ヶ谷町」下車、両停留場の間南側裏手通りが即ちそれで、路次を入れば早くも絃歌の声をきく。
一葉女史の名篇「にごり江」に依つて有名な私娼窟、それの発達したのが即ち今日の「白山」なる花街である。 指定地の認可を受けて花街となつたのは、たしか明治四十五年の初夏の頃であつたと記憶する、私娼窟が漸次発達して遂に純然たる花街に変化してゆく経路と光景とを私達は此の花街に依つて如実に見せ付けられたものであつた。 それは丁度私が或る雑誌を経営して居つた頃で、その印刷所の女将が内職に此地へ待合を開業した関係から、お義理も兼ねてちよいヽ此里へも足を踏み入れて見た、苟くも待合ともあらう家の障子に破れ目が二つも三つもあつたり、雨漏が壁に万国地図をひろげてゐるといふ、そのたいした家へだ。 が、新橋や赤坂に較べるとまるで別世界のやうな、この新開地の花街の、変つた風情なり、情調なりに、私は却つて一廃の興味を有つたものであつた。 その頃の話だと随分おもしろい事もあるのだが、今更そんなものを引張り出して、今日山手六大花街の一と云つて誇つてゐる人達の自尊心を傷つけるでもあるまい。
今日の白山
芸妓屋七十九。 芸妓二百七十名。 幇間が四人。 料理屋十七軒。 待合約八十軒。 数の上からは先づ押しも押されもせぬ中どころの花街であらう。
芸妓屋の草分が「かね蔦」、待合の草分が「蔦家」、料理屋がおなじく「かね万」。 その外万金だの角金だのと、いやに金の字のつく家の多いのもおかしかつた。
主なる料亭
柳川亭、可福万、万金、大正亭。
主なる待合
おかめ、田川、喜久川、とんぼ。
白山芸妓勉強会といふものが出来て居つて、三業の演芸場に集まつて芸には可なり身を入れてゐる。 踊は花柳で、長唄は勝太郎、常磐津は菊三郎、清元は美都枝、と見渡したところ図抜けた師匠でも無さゝうだが、今に芸事では東京の一流になるつもりださうだといふから、楽しみにして待つてる。
半玉の太鼓も震災後廃めてしまつた。
芸妓代は別表の通りで、別祝儀も、元来安いことを以て特色としてゐる花街だけに、極端に安いと云つてよく、大抵は二円乃至三円、最上五円といふところ。 それも近頃は不景気といふので平座敷も特別座敷も殆んど区別なくやつて居るやうである。 『白山は君、五円札一枚あればいゝんだよ』と言ふ者がある、それぢや新宿品川等の遊廓とおなじ訳で、保証の限りではないが、しかし事実だといふことである。