浅草

区域

浅草公園裏手から馬道二三丁目の各一部及び千束町二丁目にわたる一帯、可なりひろい区域で、芸妓屋・待合はもっぱら千束町二丁目の公園寄に集中してゐる。

市街電車は「雷門」下車、仲見世の雑踏に揉まれ公園を抜けて料亭「一直」の方面に出るか、或ひは「田原町」に下車して東へまっすぐ十町ばかり行けば、所謂「浅草花街」の中心地である。

浅草が東京を代表する大衆的歓楽境であることは言ふまでもない、現代の大衆的歓楽境が活動館とカフエーで埋められてゐるべきことも、亦いふべく余りに野暮であらう。 曾ては一千の私娼を擁して吉原を圧倒し、大正を旧幕時代に復して私娼全盛時代をつくったのも此地であった。 が公園の活動と安カフエの繁華区に接して、東京一の大花街を有することも忘れてならない事実である。

震災前の東京の花街は、新橋の九百余名を以て第一位として、新橋南地の烏森を加ふれば正に約一千二百名で、圧倒的優勢を示し、これに次ぐのが芳町の八百九十入名、浅草は七百三十四名で第三位を占めてゐたが、震災後は隣接地に新らしい花街が続々出現した結果、市内の芸妓は各花街ともに、多少の減少を免がれなかった間に、ひとり浅草は「西見」を合して1000名を突破し、一躍、数に於て第一位を占めるに至った。 その内容、実質に就ては姑らく問題外に措く、兎に角、歴然、大衆的歓楽境としての力強さを示してゐるではないか。

浅草の歴史 「一つ家」の伝説—いてふ娘お藤。

浅草は、おそらく東京で一番古い歴史を有する花街であらう。 浅草観音堂は十八間四面の大伽藍、その本堂の天上の一隅に国芳筆の「一つ家」の絵馬があるさうな、それは浅草観音縁起と共に武蔵野における最とも古い伝説で、「日はくれて野には臥すとも宿借るな、浅草寺の一つ家のうち」云々と、今から四百四十余年前の著である「回国雑記」にすでに古への伝説として揚げられてあるので、その「古さ」の程も知れやう。 浅草公園附近が一面浅茅ヶ原であつた頃、その一つ家で旅人の袖を引いて色をひさいでゐた娘は、立派な私娼でなくて何であらう。 浅草といふ地名の起因に就て「求涼雑記」に曰ふ、『……按ずるに浅草とは深きに対したる名にて、浅野、浅田、浅井等のごとし。 …是に依れば豊島の郡も武蔵野の内にて草ふかゝりつるに、ひとり此地は観世音の霊場にて、おのづから聚落となり、荒蕪のひらくること他の地より先だちたれば、浅草の名は起りたり」と、此の説真相を得たるが如し。 尚この外此地はもと東海官道に当り、延喜式駅遞「豊島」の水駅のあつた処、常に旅人の往来の絶へなかつた処であることをも稽へねばならぬ、今日の「馬道」は蓋し駅路の転訛した名称であらう。 上古時代からの宿場で加ふるに流行仏の門前であつた此の地に、逸早く私娼街の出現を見るに至つたのは、むしろ当然の径路であつたのである。

彼の有名な笠森お仙と併せて「明和の三人娘」として、流行唄に歌はれ、錦絵にして売出された銀杏娘のお藤、古屋のお芳、その二人までは此の浅草の女で、お藤は観音堂のうしろ—今もある銀杏の樹の下に店を出してゐた揚子屋の娘、お芳は二十軒茶屋の古屋の娘であつた。 二十軒といふは、慶應元年に焼けた雷神門(雷門)から仁王門に至る今日の所謂仲見世に、むかし三十六歌仙にかたどつた三十六軒の歌仙茶屋があつた、それが後に二十軒になつて二十軒茶屋と云つた頃の一軒で、お芳は赤前垂をかけて「お福の茶を召せな」どゝ呼びたてゝ、通行の善男どもを悩殺してゐた美人である。

浅草の今昔 小ゑん—千代龍。

観音堂附近一円の地が公園となつたのは明治六年であるが、実は公園といふも名ばかりで、「奥山」の丘阜を切開いて千束村の耕地を埋立て、その一隅に瓢箪池を造つたのが漸やく明治十四年から十五年にかけての仕事、次で雷門から仁王門に至る両側の出稼ぎ店や掛茶屋、飲食店などを立退かせて銀座の舗道をつくるに買込みすぎて余つた煉瓦を、持つて来て敷詰め、仲見世の新装の成つたのが越えて十七八年頃。 それから歩一歩と今日の歓楽境乃至は花街を形づくるに至つた経過を語るだけでもこれは一寸おもしろい話だと思ふが、長くなつて始末に終へなからう。

小ゑんといふ芸妓のあったを御存知か? 小ゑんの艶名は一時東京の花街を風靡する程の勢ひであった。 と器用な事は言っても実は私も知らない、東京に出て間もない頃の事で絵端書だけは拝見したことがある、少し淋しい顔だったが、どれもこれも夢見るやうなぼうとした眼光の妓で、これが東京に於て絵端書で売出した芸妓の元祖であった、売出しは日露戦争の少しばかり前だそうである。

次が所謂「五人組時代」なるものである、曰く千代龍、花子、太郎、次郎、雪江。 さうだね最早十七八年になるかね、その頃までは未だ浅草の石新道にも、弾かせても、唄はせても、相当腕もあり、張もある、江戸前の芸妓の褄取る姿が見受けられたものだった。 その五人組の山木千代龍はちよっと小ゑんに似た美人だったが、吉右衛門と熱くなった結果、到頭吉右衛門は柳橋の芸妓だった前の女房を離縁して、千代龍と夫婦になったのである。

数に於ては兎に角、あの頃が浅草花街の全盛時代では無かったかしらん。 古い話ばかりして現在を語らないのは、実は今日の浅草については殆んど知る所がないから。 甚だ相済まない。

今日の浅草

芸妓屋約二百七、十軒。 芸妓 大小併をて約八百名。 料理店、三十七軒。 待合茶屋 二百五十軒。 以上が即ち現在の浅草花街を形成ってゐる拂成要素で、別に「浅草西見」と称する一派があって、千束町二丁目の三百五、六十番地に亘つて一廓を成し、芸妓屋約五〇軒芸妓百五六十名、待合茶屋百余軒、それに若干の料亭も加はつて三業を組織し、安直主義を標榜して侮りがたい一勢力を成してゐる。 大正五六年の頃私娼窟取拂ひに際して転業した女達並びにその系統を引くクループに依って創設されたもので、所調△△専門。 それで以前は『西券か、フン』と鼻であしらはれたものであったが、草創以来すでに十余年の星霜を経たる今日では、芸妓も、待合も、そのすぐれたるものは公園の二流どころと比して遜色なく、演芸会にも大手を振つて出かける腕だつしやなのがあれば、ダンスに巧みなロシア女も居るといふ風で、頭からさほど馬鹿にしたものでもなく、西券には西券の情調があると言へやう。

主なる料亭待合

こゝの料理店は、草津、一直、松島、大金を俗に「四軒」と称へて、代表的料亭とされてゐた。 之に萬梅が加はつて元五軒茶屋と呼ばれたのが一軒減つて四軒になったのであるが、一直・草津はもとヽ宴会向の家で、松島は震災前から已に格が落ちたと伝へられ、ひとり田圃の大金のみがわづかに『古い浅草の、黄昏のやうな落付と雅びとを見せて』ゐたが、それも今は無くなって、家号だけは同じ名のがあるが、以前のそれとは肖てもつかない家である。 で、現在の料理店としては、一直、草津、大増、大増支店、銀なべ、松しま、松楽、みまき、水仙、などいふところであらう。 大増は磐常没落後その跡を受引けたもので、綺麗な女中を多く集め、湯瀧などを設け、殊に震災の際不思議に焼け残って以来一層めきヽと頭を擡げて来た家である。 草津と一直はうら表に隣り合ひ、一直は昔新門辰五郎の住んでゐた跡と伝へられてゐる。

待合では依然久の家を筆頭に、久辰、久山田、竹田家、宮竹 卷の家、すゞえ、須美壽、のんき、福井、住よし、おせん、春日、鹿の子、金泉などいふところが一二流であらう。

浅草情調

公園芸妓は何となく田舎くさいと言はれるが、客にも田舎臭いのが多いかも知れない。 一流芸妓となるとなかヽ確かりしてゐるが、二流三流がなくて一流から直ぐ四流どころへどか落する。 それに一寸した宴会にも今以て太鼓などを持出すのは、市内の花街では滅多に見られない風景だが、これも特色の一つで、矢張りそれが浅草気分といふものであらう。