中書島

省線ならば奈良線の「桃山駅」下車、電車ならば京阪電車の「伏見中書島」同じく「伏見」停留場(大手筋)、奈良電車の「桃山御陵前」、又は京都市街電車伏見線の「中書島」等に下車する。 京都中央部から二十分、奈良市から四十分、大阪市から約一時間で到達する。

京阪地方酔客の間に、一種特別な情趣とカラアを有つた歌吹郷として、中書島(チユウショジマ)の名は知られてゐる。 伏見区の南端に位置し、宇治川に横はる矢倉島の西北部の一端を占めて、三面ともに宇治川の支流に臨み、橋梁をもつて市街と相対し且つ連絡されてゐる。 街区は東・西柳町にわかれて、その形状、田の字形をなし、その間百数十戸の妓楼、旗亭、商賈いらかをつらねて、昼夜絃歌の響き絶ゆるときなき洛南唯一の温柔郷である。

元禄十二年とかに、時の伏見奉行建部内匠頭が風教維持の目的を以て、現在の地に遊廓をつくつたのが本花街の濫觴であつて、後また伏見奉行内藤豊後守は柳町遊廓の残部をことごとく此に遷して、南北二花街に整理し、「中書島柳町遊廓」と呼ばれてゐた。

今日の隆盛を来たした所以は、往時は参勤交代の要津にあたり、維新後も亦依然として東西交通線上の焦点を占めて居つたが為に外ならない。

娼主亀芸従の本格的遊廓のひとつであつて、芸妓の数は八十名から九十名、同じく娼妓は常に三百五六十名を上下してゐる。

妓楼の重なるもの 末広楼。 芳の家。 新栄楼。 仲辰楼。

揚屋の重なるもの 喜多仲。 横萩。

料亭の重なるもの 観月柵畔の「澤文」。 寺田屋騒動で名高い「寺田屋」。 日本一の柳樹を自慢する今富橋畔の「喜多家」。 川魚料理の「鮒亀」。 その他「橋田」「魚常」など。

洋食の方では「桃山食堂」。 「カフエー十八番」

代表的芸妓としては先づ横山の貞、千代家の千代、柳家の金吾などを推すべく、名物老妓小園に至つては廓中の一品である。

遊興制度

芸妓の花代一本金十銭也の「十銭花」で、一時間約十本の割合であるが、最初の一時間は「送り花」二本がついて十二本の勘定となる。

「仕切花」は正午より午後六時迄三十六本、午後六時から夜十二時迄四十八本。 夜零時から午前一時迄の一時間は十六本で、零時から朝六時迄は三十八本。 昼夜仕切花(終日)は百三十本である。 その他日柄、座替り、揚げ、挨拶花、他所行の日柄等の制度あること他の花街と異る所はない。

娼妓の花代これは各妓楼に依つて多少高低があるが、標準は一時間十五本、上り十本といふ至極大衆的な遊び方をさせる家が多くなつたといふ。 花代一本は芸妓と同じく十銭で、夜十二時をすぎると、朝まで三十本内外で泊めるのが先づ昨今の相場らしい。 それで此の遊廓へは旅館兼用のつもりで入込む旅客が多いといふことである。

芸妓は多く子方屋に居るのだから、妓楼からも市中の料亭からも自由によぶことができるが、その特別祝儀は揚屋の格乃至芸妓子方屋の如何に依つて著しい差がある。 一流芸妓を白切符、中流を青切符、下級を赤切符など称し凡そ三段に分れてゐるが、最下級の赤切符でも、東京の場末の花街に較べると遥かに高い。 娼妓本位の遊廓だから芸妓の特祝の高いのは当然であ

花街情調

水郷である此花街に「網船」は一種独得の情調で、毎年四五月の頃から九月中旬迄行はれ京阪地方からの漁客が多い。 宇治の清流に棹し、指月の森の前に船を停めて、緑樹影映り魚木にノボル謡曲の一句を眼前に投網するの清遊は、竹生島では見られない図である。 白沙の浅瀬あり。 紺碧の深淵あり、投網の渦紋流れにつれて消えゆく様、心ゆく迄の静寂の境である。 網船は各料亭から出るが、網船專業者もあつて、夏期は日毎に少くも数艘、多い日には数十艘の出船がある、それから七月二十二三の両日に亘る「弁財天祭」は丁度大阪の天神祭に似た水上祭で、御輿船や囃子船と共に遊船をつらねて宇治川の本流に出て、廓内は何れも満艦飾、紅燈水に映じて一大龍宮城を現出せしめる。