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宮川町
加茂川の東岸、四条大橋と五条大橋の中間所謂「宮川町」なる一廓で、北は四条通に接し、南は五条通につゞき、東は五山の随一たる建仁寺に隣つてゐる。 京都駅からは烏丸通を北へ、五条通を東へ、五条大橋を渡れば直に本廓の南端に出る。
市街電車ならば「河原町五条」或ひは「四条大橋」下車、京阪電軌ならば四条停留場に降りるのが一番近い。
その昔、弥次さん喜多さんが一場の喜劇を演じたところ、その頃は「五条新地」と言つたらしい。 ずつと古い頃五条橋の下あたりに在つた岡場所が、だんだん宮川町の方へ発展して行つたもので、
宮川町の沿革
に曰く『往時、内親王又は女王を斎宮に立て大廟を奉仕せられし時代、加茂川四条のあたりに堰を作りて水を引き、清き細流を湛へて斎場とし、定例の禊を行はせ給ひき。 宮川の称これより始まる。 堰の名は現に町名に存し此附近を井手の町と呼び、その東溝は宮川の遣流なりと言伝ふ。 —宮川筋は元と加茂川の磧なりき。 宮川町一丁目は寛文六年開地し、二丁目より五丁目までは寛延三年に開け、六丁目七丁目は元禄十二年拓かる。 又西御門町は正徳二年にひらけ、旧時此処に十禅師社ありしを以て町名とし、開拓当時には「建仁寺新地」の称ありき、これ建仁寺の領地なりしが故なり。 —宮川町遊廓は今を距ること百七十余年前、寛延四年二月所司代松平豊後守資訓、町奉行稲垣能登守正武の時、はじめて茶屋渡世を許される、宮川筋一丁目より六丁目迄、茶屋渡世十ヶ年を制限とす、期満つるに及び継続を請願し、明和七年祇園町と共に茶屋株を允許せらる』と。 蓋し京都では最も古い歴史を有する遊廓の一つで男娼流行の時代にはカゲマ茶屋があつて有名だつたことも世人の知るところであらう。
現在の宮川町
芸娼妓置屋、約七十軒。 芸妓四〇〇名。 娼妓四〇〇名。 揚屋約三百軒。 その内代表的な揚屋(貸席)は遊喜楼、大和屋。 西秀の三軒で、遊喜楼は親切、大和屋は客室が多く、西秀は最新の設備を、それぞれ特色としてゐる。
京都としては二流の花街で、凡て現金制度でやつて居るが、それだけ大衆的で諸事手軽な点が却つて一部の旅客などには喜ばれてゐる。 規模は大きくないが歌舞練場をも有し、義太夫は他のどこの廓に比しても優つてゐるといふ評判である。
遊興制度
芸妓も娼妓も揚屋へ呼んで遊ぶこと、料理屋ヘハコの入らぬことは他の廓と同じである。 花代は芸娼妓共に一本十銭、日柄一個に付花五本、「切花」及び「挨拶花」は各十本以上、遭状に依つて揚つたときは五本増し、外国人は凡て規定の倍額を申受け、娼妓の「太夫」は規定の花数の外に送り花三本及び仕切花、跡花に日柄一個が附加される。 仕切花の本数左の如し。
朝より昼まで芸妓二十本。 娼妓三十本 昼より暮まで同三十五本。 同 三十五本。
暮より夜十二時迄 同四十五本。
同 四十五本
夜十二時より午前一時 同十本。 同十本
夜十二時より朝迄 同三十本。 同三十五本
午前一時より朝迄同三十五本。
昼夜 同百三十本。 同百四十五本
「時間制」に依るときは
送りこみ十本(凡時一間)
切花十本(凡一時間)
跡花十本(凡一時間)
右は芸娼妓ともに同じ。
舞妓の花代は凡て本花の半額。
但し紋日は正午から午前一時に至る間「仕切」をやらず時間で計算する。