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祇園新地
四条通りの東端円山公園の麓、京都駅より東北二十二三町、自動車賃一円。 市街電車は「祇園石段下」又は「四条縄手」下車。 京阪電車は「四条」の停留場最も近く、京津電車ならば終点(三条)下車、縄手通を真直に南へ四五町。
加茂川と円山公園に挟まれ、八坂神社の石段下から西へ劇場「南座」に至る祇園通り両側の人家を除いて南北に跨がる一廓で、北は富永町、末吉町、清本町、橋本町、元吉町、弁財天町を包擁し、これを「内町」といひ、南は花見小路、青柳小路、初音小路、等にわたる、即ち、「祇園南側」である。 「祇園新地」又は「八坂新地」とも呼ばれてるが、甲乙両部に分れ、祇園新地甲部を略して「祇甲」といふ。 世人が普通に祇園新地といふは祇甲のことで、祇乙は俗に「せゞうら」と称し、これは安直主義大衆向きの遊び場処である。
現在祇甲に属するもの 貸席 三百四十軒。 芸妓置屋(小方屋といふ)七十軒。 芸妓 約七百五十人(内舞妓約四十人)。
囚みに、法規上は普通のお茶屋が第一種貸座敷、小方屋が第二種貸座敷といふ名儀になつて居るが、小方屋は純然たる芸妓屋で、貸席からの招聘に応じ芸妓・舞妓を送りこむのみで、自宅へ客をあげることは決してしない。
祇園新地の沿革
に就て京都名勝誌に曰ふ。
—現今の祇園町両側などは、祇園神社鎮座のむかしより家屋接続の地なりしも、中古兵乱の為め次第に荒廃して一寒村となり、僅かに農家の散点するのみなりしが、元和・寛文より正徳に至りて漸次に田圃を開拓して市街となし、祇園・清水等参詣人のために茶店など出来たりしが、いつしか美女を抱え、酒肴を供し、後には青楼・酒館軒をならべ燈を連ね絃歌の声は昼夜湧くが如く、遂に京都第一の遊廓となりぬ。 (京都市役所編纂)。
と、即ち祇園清水の門前町として発達した花街で、今すこし註釈を加へるならば、此地に祇園感神院の勧請されたのは貞観十一年(一千六十年前)可なり古いことで、当時の腰掛茶屋こそ今日の貨席の濫觴であり、茶汲女は即ち芸妓の元祖である。 茶屋といふ名義を公許されたのは徳川時代の享保十七年、僅か二百年ほど以前からのことで、詣道両側には追々多数の茶屋が軒を接するやうになり、寛政二年(百三十八年前)始めて遊女町の許可を得て遊廓となったのであるが、享保時代の「茶屋」なるものがすでに茶菓のみ供する休茶屋の類でなかつたであらうとは、蓋し誰しも想像に難くない所で、事実は立派な娼楼であったのである。 それは大石内蔵助が揚屋通ひの文句に、『祇園島原撞木町』とあるのでも明らかであるが、蘭人ケムフエルの紀行などを見ると一層その事実が明瞭にわかる。
寛政二年遊女町を許可されたといふのは、たゞすでに実体の在つた所へ之に副ふ名称を附したといふにすぎない。 天保十四年に洛中洛外一般に遊女町を禁じて、一時悉く島原へ集中されたが、嘉永四年島原の大火後復帰して内町六ヶ所(富永、末吉、元吉、清元、林下、橋本)を限界として許可し、その後急激な発展につれて安政六年外六ケ町(弁財天町、中ノ町、廿一軒町、川端町、常磐町、宮川町筋一丁目)を編入して祇園遊廓の一廓を成し、更に別れて今日は甲部・乙部となつてるといふ訳である。
主なる貸席
万亭。 富美代。 大嘉。 大和家。 吉喜乃。
いづれも一種の格式を持つた代表的なお茶屋で、昔の通り赤前垂をした仲居が出て取持ちにつとめる、真に「祇園の大茶屋」らしい気分に浸ることのできるのは、こゝらの貸席であらう。 就中「万亭」は、祇園町から花見小路へ曲らうとする左手(東)の角に在つて、万春楼の頭字を取つて万亭と称し、それが万亭となり、更に万の字を割いて「一力」と呼び習はしたもの、大石内蔵助が祇園島原の揚屋通ひにうき身をやつした頃、敢てこの茶屋で遊んだといふ訳ではなかつたが、彼の戯曲仮名手本忠臣蔵の何段目かの舞台を此家にとれる為、海内都鄙祇園の一力を知らざる者なきに至つた。 そこで内蔵助が百五十回忌に際つて報恩の為め大法会を修して庭内に碑を建て、大石以下四十七士の木像を祀り旁ら義士の遺墨遺品等を蒐集して、毎年三月二十日の大石忌に公開して、一般に縦覧せしめてゐる。 建築も立派だし、庭園も頗ぶる閑雅幽静御定連は一流の紳士紳商で、古来の家憲に依り芸人は遊興させないことになつて居る。
また以て妓園の一名物となすべきであらう。
遊興制度
芸娼舞妓を聘ぶは貸席に限り、料理屋は貸席の手を経由すべきこと前述の通り、芸妓舞妓の花代は一本三十五銭で、その立て方は、午前六時より正午迄は一時間二本、正午より午後六時までは一時間三本、午後六時より同十二時迄は一時間四本、十二時より午前六時迄は一時間三本の割合。 「通し花」(一日)は五十六本の定め。
普通の座敷には祝儀を要せず、「おふれまひ」(宴会)等の場合に限り一人宛五円位の祝儀を出す。
特別祝儀は最低百円から最高一千円位迄、特約は凡て継続的で其の場限りのものはない、従つて東京式に簡単には行かない。 が、祇園新地で夜十二時以後の花を売ることを「三倍」といふ、格別花代が三倍になる意味ではない、そして其の明し花を売つたまゝ軟化する妓があるので「三倍芸妓」などいふ語もできて居るが、それとても所謂不見転とは異り、初会の客では一寸むづかしい。
枕席に侍ることを「逢ふ」といふ、これ等にも祇園情味の一端を窺ふことが出来やう。
祇園情調
京美人を一言にしていへば『温順しやかな色つぽさ』が其の身上で、いづれもお茶を習つてゐるから起居助作のしとやかなること、全国に比なしと推称して過賞であるまい、従つてどんちやん騷ぎをせずしつとりと落ついた座敷に趣きがある。 殊に春の朧ろ月夜盛装した二三人の舞妓をつれて、円山公園のそゞろ歩きは、祇園情調の極致と言ひたい。 然し舞妓姿のほんとうに美くしいのは都踊りが終つてから秋の初めに至る迄の間で、
京の子が、扇かざして透綺着る、夏も間ぢかき夜の灯の色。 (中澤弘光)
と歌へる、さすがに書家はよく其の美くしい所を掴んでゐる。 京の舞妓は近くで見ても、遠くから見ても、また前から見ても後ろから見ても、うつくしいものだと私は思ふ。 例の蝉の翅のやうな「ダラリ」を垂れて、木履を穿いて、二人ならんで花見小路あたりをゆく後ろ姿は、全たく雛壇から脱け出したやうである。 前から見れば玉蟲色に光つてゐる唇—舞妓の口唇の紅の濃さと、それを大切にすることも祇園の一つのカラアで、物を食べた後は、屹度唇の色を直すことを忘れない、それがまた大抵金屏風のかげ、白粉の濃い衿首を此方に見せて、ふつくらとした頬を斜光線でぼかして紅紙を嘗めると極つたものらしく、飽く迄も客を悩殺しようとかゝつて居るかに見える。
へえ大きに。 そらよろしおすな。 それは何処でのことやのどす?。 あほくさ!。 てれくさ!ほツちツちーや。 きいつ目に言うて呉れはるわ。 −等々その通りに、角の取れた柔か味に富んだ言葉づかひ、それも亦祇園情調を湧かせる泉の一つであらう。
何時を懐中に小遣銭を持つて居らぬことが祇園の芸妓のひとつの誇りで、客に惚れつぽいがそれでゐて相応に金を捲上げる。 いかに惚れてる好きな男でも、金がなければ後足で砂をける。 とれが又祇甲芸妓の伝統的気質であることも忘れてはならない。
特有の歌謡
「京の四季」は唯一の郷土歌謡で、作者は故香川景樹翁、三味線は本調子である。
春は花、いざ見にごんせ東山、色香あらそふ夜桜や、うかれうかれて、粋も不粋も物かたい二本ざしでも柔かう、祇園豆腐の二軒茶屋、御契ぞ夏は打ちつれて、川原でつどふ夕すゞみ。 よいよいよいよいよいやさ。
真葛ケ原にそよそよと、秋の色増す華頂山、時雨をいとふからかさに、ぬれて紅葉の長楽寺、おもひぞつもる円山に、今朝も来て見る雪見酒、ヱーヱそして櫓のさしむかひ。 よいよいよいよいよいやさあ。
三味線のみで他の楽器を用ゐず、踊は着流して、一人でも二人でもやれる。
都踊りのことは別項に記すが、元来祇園の舞踊は「井上流」で、此の廓ばかりは古来他の流派の浸入を許さぬ。 現在の老師匠井上八千代(本名片山春子)は三代目で、観世家元左近氏の祖母に当り九十余歳といふ老齢ながら、尚矍鑠として日々多くの弟子に親しく手を取つて教授し、醇々として倦まず、特に稚けない少女を仕込むことを好み又これを得意として居る点は、三十余年間祇甲組合の取締役に歌舞会長及び八坂女紅場(祇園芸妓の学校)理事長を兼ねてゐる八十五歳の辻村多助翁と共に、祇園新地の誇るべき二大名物であり、また恩人であると言はねばならぬ。
概して地唄ものゝ「鉄輪」「雪」「七ツ子」と云つたやうなものを特技とし、踊ではなく舞である。 されば地方としては現在の長唄、常磐津、清元等は接合しない、それを近年稀音派の長唄が接近せんとして、六治師匠が頻りに努力をして居る。
京名物「都をどり」
春は花、いざ見にごんせ東山、京の春の歓楽は祇園の夜桜からはじまる。
『祇園さんの桜がが咲いた』と、花信一たび洛中に伝はれば最早京の人達の心は落ついては居ない、事実京都では祇園の桜が一番先きに綻びるのであるが、その花と前後して祇園名物否京名物の「都をどり」が、四月一日から始まつて一か月間つゞく。 踊の舞台「歌舞練場」の在る処は名もふさはしき花見小路で、祇園通りの曲り角(万亭の在る処)に例のつなぎ団子を白く染め抜いた紅提灯が鈴なりに点つて、四條大橋を渡れば自づから脚はその方へと吸付けられてゆく。
歌舞練場の入口は華族屋敷の玄関のやうだが、場内は舞台も客席も殆んど劇場と同じやうな構造で、平土間もあれば桟敷もある。 踊は地方が十人、囃方が十人、踊り子が三十二人、つまり五十二人を以て一組とし、総計六組で毎日交替にやるのである。
『明日はあてが出るのどすさかい、来とくれやすや。 』
『行かうかな、どうしやうかなあ。 』
『そないな頼りないこと言はんと、屹と来とくれやすな。 あての出る時誰れも来てくれはる人無いのどすがな。 』
都踊りが始まると、祇園のお茶屋では毎夜かうした会話が随所に行はれる。
点茶
都をどりでも鴨川をどりでも、場内に点茶席の設けがあつて、盛装した芸妓及び舞妓が控えて居つて、特等客と一等客には茶を立てゝ出す習慣である。 これは初めて京都に博覧会の開催された時、仙洞御所を会場に拝借し、毎土曜・日曜に都踊りと鴨川踊の出演者中非番の舞妓が十五名づゝ交代で、御苑内の醍花亭といふ御茶室で点茶の儀を勤めたのが起原で、引つゞぎ此の興行の附属として居るのださうである。 美人のお手前で一ぷく、かうなると特等一等の入場料も決して高いものではないが、時にはお上りの大尽が飲み方にまごついて居るのも面白い。