白山神社(附御酒祭)− 指ヶ谷町以外附近各町

白山神社

白山神社は白山前町にある。 伊奘諾尊、菊理姫命、木解男神、速玉男神を祭る。 社の縁起には天暦二年加賀国石川郡白山の神霊を本郷元町辺の或る処へ感請し、元和二年小石川薬園の地に移し、明暦元年、白山御殿造営に際し、今の処に移したのであるといふ。 毎年九月の例祭に神輿本郷元町偏りに渡るは其の旧地である為めであると云ふ。 社格は郷社、毎年九月二十一日を祭礼としてある。 境内に八幡宮がある。 此の地の地主神であると云ふ。 源義家奥州征伐の時、この地に勧請じたるものと伝へられ、白旗桜は義家が旗をたてたるものと云ふ。 此の桜、蕊の中に白旗の如き弁を交へて居るといふ。 神社境内は明治二十四年八月公園に編入せらる。 昔は釣樟の歯子と紙にて製する所の弓箭を以て此地の土産としたと云ふ。 境内には尚浅間神社、巌島神社、松尾神社、三峰神社、此の地は旧幕時代は社前に茶見世などあり、いかゞはしき女なども集まり居りしこともありて賑かなる処であつた。 大方改撰江戸誌に『むかし日向太夫と云ふが爰に芝居をはじむ。 是は白山御殿などありし頃、御家人等も此辺に多くつどひしかば、かゝる賑ひしこともありしなるべし、正徳より前の事なるべし』とあつて芝居など興行されしも盛り場所であつたからであらう。

江戸名所紀に、白山町白山権現として、白山権現は加賀の国の霊神なり。 そのかみ越の大徳泰澄はじめて白山にのぼりて天女に逢賜ふ。 かの天女かたりてのたまはく、われはこれ天神の第七代いざなぎの尊なり、いまは妙理大ぼさつと名づく、本朝男女の根元の神也とて、たちまちに十一面観音のかたちを現して頓ておすがたをかくし賜ふ。 又ひとつの峰にて神に逢ひ賜ふ。 手には金の矢をもち、眉には白銀の弓を横たへたり、名づけて小山大行事といふとて、聖観音のかたちを現して、やがておすがたをかくし賜ふ。 次に又一人のおきなに逢賜ふ。 我はこれ大己貴の尊と名づく、西方浄土のあるじ也とて御すがたをかくし賜ふ。 これによつて白山権現をあがめ給ふ佐羅の早松は本地不動明王なり。 金劒はまたこれ倶梨伽羅不動の変体なり、又白山権現は神代のいにしへは菊理媛の尊と申侍べりきとなり、いまこの地にくわんじやうせし事は元和元年の事也。 もとのやしろの地には名水の瀧あり、日外のころにや、有典厩公かの寺を替て御下屋敷とせられしに瀧水つき山の前におとさしめらるゝに更に一滴の水もおつる事なくたへはてたり。 人みないはく、権現の威に依て瀧の落たりしを、権現すみ給はぬゆへに瀧の水絶たりといふ、いとおろかなる事也、しからば今の社の地に瀧あるべし、今の地に瀧のなきはいかなる故ぞや、およそ水脈の地の中に通ずる事、時にしたがひて替る事、古来世の常にあり、さのみにあやしむにたらず。

なにことのおはしますらんしら山の

しらぬなからも神そたふとき

(江戸名所記は淺井了意著なり、寛文二年の版行也)

此の記にもある如く、当社は旧白山御殿の地にありて、 簸川明神、女体宮と共に並びてありしかども、彼の地に御殿営作せられし頃、今の地へ遷座なし奉ると也。 又云ふ、名木船繋松は此の社の神木なりと云ふ。 女体宮とは今伝通院内にある弁財天にして簸川明神は今の簸川神社である。

江戸名所図絵には、白山神社は同所指ヶ谷町にあり、小石川の鎮守なりと記してあり。

白山神社神域内に祀れる松尾神社は東京市中に於ける唯一の奉祀所なるが、小−石川区内洒商組合は此の所縁ある酒神松尾神社を崇敬し、昭和六年十一月三日御酒祭をした。 白山三業株式会社にては営業土の関係もあり、これを援助し『御酒祭と松尾神社』と題せる御酒祭の縁起を印刷して一般に配布した。

御酒祭と松尾神社

小石川酒店組合は、今茲十一月三日の佳き日を卜して、白山神社境内に齋き祀れる酒造の神松尾神社の祭典を挙げ『御酒祭』と称へ、是より年々の吉例と定めたるは祖神崇敬のよき催しと、私共ゆかりある営業のものは等しく慶び祝し奉る次第である。

抑も松尾神社は、古から梅宮、三輪の両社と共に、酒造の祖神として尊ばれ、御本社は山城国葛城郡松尾村上山田に、宮柱太く千木厳かにそゝり立ち、 祭神は大山咋命、中津島姫命の両座、社格は官幣大社として崇め奉る。 二十二社次第には祭神を大山咋命と市杵姫神と誌してあります。 同じく酒造の神たる梅宮神社は祭神、酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神の四座、三輪神社は祭神、大物主の神を御まつりしてあります。

申で迄もなく、我が国の酒に関する故事は、古きより伝はり、之を神代にしては素盞鳴尊、が脚摩乳、手摩乳をして八塩折の洒をかもして大蛇に飲ませた古事、崇神天皇の『この御酒は我みきならず、やまとなる大物主のかみしみき』と云ふ御歌、また延喜式に造酒の司かありまして淵源まことに遠いのであります。 酒泉の流れは滾々として更に永く尽くる事はないのでありませう。

さて茲に御祭の神酒に醉ひ、御神楽の音に興じて御酒の徳をたたふる一節、敢て古今東西の例など引くは煩はしと存じますが、一休和尚が與茂作の酒店にて酒盃を傾け、一睡した時の歌『極楽はいづこにありと思ひしに、酒葉立てたる與茂作が門』と喝破したのは陶醉即ち極楽の悦楽の境地を示し、御酒の百億礼讃の辞にも優るものであります。

水戸黄門光圀卿は小右川に因みある英傑で、又豪酒の方であります。 酒の事を『別春』と称して居られました。 酒中の快興は、四季の春以外の別な春の天地、別な春ごころと云ふ意味であります。 又むかし、小石川富坂下小笠原信濃守の藩中に三浦新之丞樽明と云ふ人がありました。 此の人、天性洒を好み、興熟し来り大盃を傾けて多く飲むときは、更に相抗するものがない大洒量の人であつたと伝へられ、酒従隨従の門弟も数多くあつたとか、此の人延宝八年正月八日病歿、其の墓碑は戸崎町祥雲寺にあつて法名は、酒徳院醉翁枕樽居士と号します。 其の碑に『南無三宝多くの酒を飲みほして身は明樽と帰る古郷』外一句を鐫ってあります。 是れは樽明の辞世の歌であります、此の墓を山東京伝が地黄坊樽次の墓と伝へたのは誤りで、樽次の墓は別に谷中にあります。 祥雲寺は今は移って池袋にあります。 小石川は偉い酒徒に因縁が深いのであります。 此の土地から御洒祭の起つたりも故あることと存じます。

昭和六年十一月三日明治節のよき御洒祭の催ふしの日。