史蹟、神社、仏閣、名所 - 指ケ谷町 蓮華寺

蓮華寺(附岩瀬肥後守墓所の事)

本松山蓮華寺は旧記には本松山蓮華寺、法華、駿河国蓮永寺末、指ケ谷一丁目とある今は指ケ谷町二十八番地、電車通りの南側石段高く、指ケ谷を眼下に、遠く本郷西片町の高台と相対する台地の上にある。 石階を上り盡すと仁王門がある。 経王梵閣の扁額がかけてある。 仁王の楼門を 入りて右すれば巨大なる槲樹がある。 鬱として茂つて居る。 是れは当山開祖日雄聖人の御手植と云ふことである。 新編江戸誌に『開山安立院日雄聖人、天正十五年丁亥年起立塔頭、観成院、仙應院、延壽坊、善行坊、瑞泉坊』と云ふ事見ゆれば此の樹、天正の植樹とすれば正に百年の歳月を閲するものか、樹下に釈迦の石仏像一体を安置してある。 当寺は明治三十年火災に罹つて楼門を除き、本堂庫裡悉く烏有に帰し、今は只仮本堂あるのみ、旧記に依れば本堂は五間六間、本尊三宝祖師、又仁王門の側に鐘楼の聳立を見た亊も記されて居るが今はない。 只本堂の側に歯痛守護熊王大善神、当山守護本松大善神の令祀小祠があり、小鬼子母神祠があるが小野篁作と称する鬼子母神像は見えない。 当寺の開基は当時の名主高橋茂吉郎の祖先と云ふことで、位牌堂に

当寺開闢檀那証真院日前高橋図書

長宜院妙前日意 図書妻 正保三年戍十一月三日

覚善院了悟日正 嫡子高橋主膳 明暦二年巾六月廿八日

高橋氏の名は此の地の名主にて泰平御江戸町鑑に『伝通院領秋本新七郎、高橋安右衛門、両人月番持』とある。 安右衛門は図書の末であらう。

文政十一年版の増補改正万世江戸町鑑には、小石川原町から指ケ谷町、大塚にかけての各町の名主に小石川原町、秋元茂兵衛月替り勤、大つか町高橋安右衛門、後見茂吉郎と云ふ名が見えて居る。 此め高橋氏は大つか町に居住せしものであらう。 当寺に鏡の井と称するものがある。 家康 家光此の丼池の清冽なるをめでた事が伝へられて居るが、真偽今遽かに探りがたい。 此の蓮華寺は明治維新前までは五千二百五十三坪の広面積を擁したる大寺であつたが、今は寺域甚だしく縮まり境内千百四十三坪余、其の他崖地を有するにすぎず、往時の偉観を存せざるは惜しいことである。

山岡氏累代の墓、当寺は山岡鉄舟居士祖先累代の菩提所であつて、墓地中に山岡累代墓と刻まれたる墓碣がある。 因に山岡氏は鉄舟居士以前は日蓮宗なりしが鉄舟居士一たび参禅して後、谷中に鉄舟寺即ち全生庵を創起したので、居士自身の墓は蓮華寺にあらず全生庵にあるのである。

岩瀬忠震の墓、蓮華寺には、岩瀬肥後守忠震の墓があつたが、今は改葬せられて雑司ケ谷共同墓地に移されて居る。 岩瀬肥後守は鴎所と号し、幕政の末期に際し、其の難局に当りたる名士である。

岩瀬鴎所の墓につき蓮華寺にて寺僧及墓守に就ゐて正したるも不知との答なりき。

榊原氏談、白山蓮華寺に元岩瀬鴎所の墓ありしも、震災前(大正十二年)既に雑司ケ谷共同墓地に移し去つた。 震災後碑石の倒れたるを修理したのを見た。 此の墓の移転に関しては何人が移したるや知るものがない平山戉信男に質した亊があつたが同男も不知と云ふ。 恐らく岩瀬氏の女婿氏(海軍少将とか云ふ)の手に依つて営まれしものか、岩瀬氏の墓は蓮華寺の坂下(今は人家建 つ)にあるものである。 記者云ふ、区割整理の際移したものか。