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史蹟、神社、仏閣、名所 - 指ケ谷町 法忍和尚遺跡
法忍和尚遺跡
指針谷町百二十二番地円秉寺八百屋お七の御寺にある。 法忍和尚は出身は審かならぬが、もとは京都九品寺の住職、諸国に巡錫し、のち江戸に出でゝ此の円秉寺内に草庵を結び、教化につとめ、宝暦九年の夏九月三十日示寂した浄土宗門の一僧侶なのである。
八百屋お七の事江戸時代から演劇に上演せられてから、世人に膾炙せられて其のお寺も余りに名高くなったが、八百屋お七そのものに就いては女性としては純な恋の女としてより外には何物もないのである。 或は単に情的に早熟な一個の女としての存在だったと云ふに過ぎないのである。 然し此のお七と同じお寺に滋に一個の若くして世を去った偉僧があったと云ふことは余りにも世に知られて居ないのである。 夫れは法忍和尚其の人である。 吾人はお七の寺と云ふよりは是からは法忍和尚の臨終の姿を示したと云ふ事に於て世人の視聴に訴へんとするものである。
其の草庵の跡は本堂に向って左り手の空地の辺であったらうと市原住職は語って居た。 法忍和尚は示寂の時年僅かに二十七にして逝き短い生涯であり、其の事跡は晦滅して普く知られて居ないが、近世僧侶中傑出した人であることは少壮にして逝いたにも拘はらず、其の著書としては、
O正源林 三十 〇神代私記秘要集○経聞論 O装束指掌 ○天経或問不審正義 ○天台四教義雲悌抄十 〇和讃法の玉章 O傍咏本朝和讃 ○阿彌陀経疏義釈疑 一 〇日本孝経十 〇ふみかぐみ 三 〇女中鏡 ○女中掟 ○女中大学 ○続人名 十(女中巻) 〇月之光 一 O安心要訣 一 O安心往生鏡
の多くがあり、右の中、和尚が寂滅後、松宮観山の友誼に依って公刊せられた続人名には、諸宗兼学の沙門釈法忍大和尚の名が冠せられて居るのを見ても其の一班を推すことが出来るが、更に著述の内容を見、其の行跡を検するに当つては和尚が尋常一様の僧侶ではなかったことが確認せらるゝのである。 松宮観山は名は俊仍、通称主鈴、安永九年九十五歳で歿した国学者で、若い法念と当時七十幾歳の此の老国学者とは意気相投ぜる心友として親交を続けた唯一の伴侶であった松宮観山は其の著「神楽舞面白草」に於て法忍和尚を評して「釈法忍師よく神道の奥秘を究め、多く書を著し又、生を晦し身を捨、料椢行脚し済世のために寝食をわすれ、身命をかへりみざること近日復其数あることをきかず、記憶絶倫にして学三教に渉れり、僧にして僧にあらず、その僧たるものは弘道の便あればなり、潜に顧に、むかし時頼入道の僧となりて諸国をめぐりたまひしは下情を察せんが為なれば、仏氏の徒を以ては見るべからず云々」と云って居る。 法忍和尚自からも其著「書鏡」に「身命をおしまず、今年宝暦戊寅まで二十六の年を経て艱難を甞しは何故ぞされば神明の大道を扶桑国中浦々島々迄も押開き、御国法を守りて仏の正意を弘め、現当の益を衆人に施さんが為め也」
又『予が同行たらん人らは、わけて天照皇太神宮、天満自在天神、熊野権現を尊敬し奉るべき事に候なり云々』『つゝしみても可慎は官の御政治、貴ても可貴は此三神にておはしまし候、此ことはりをよほく弁へたまへとのべ置参らせ候也」と述べておるに見ても彼の本領が仏僧のみに没頭するものでないことがわかるが、僧侶としての彼の面目は、彼が浄土宗に在りながら浄土宗の時弊を痛撃し、驀然に祖神法然の信仰を体続し、只一意、専唱念仏を説き勧めた。 法然の一枚起請は彼れ法忍和尚の崇高な態度を以て尊信する処であった。 浄土宗の安心起行は此一枚起請にて何の仔細もなきものを、数あまたの釈に釈々を取付て本願の根本たる浄土宗の元祖法然上人の誠に御一生御苦労游したる御教への根本を取失ひ、此枝に取付、かの枝に取付事も夥しき安心の法問と成参らせ候て、扨々口惜く思ひ参らせ候、およそ浄土宗三経一倫始末抄をかけて三干八百十余巻の根本抔云へば云々今此一枚起請にておはしまし候』
又、法然の一枚起請に就いて、彼は
『源空が所存此の外に全く別義を存せず滅後の邪義を禦がん為めに所存をしるし畢んぬ』と述べ更に
「一偖此下にては日本国中の浄土宗を司どらせ給ふ智恩院の大僧正も相手におはしまし候、若夫此一枚起請に源空上人の御所存を残らず記し給ふには非ず、吾が寺に此書物此遺言よと申され候はじ、予何国迄も罷超し哀し源空上人に成かはり彌陀起世到願の大慈及吉水の正院を相答へ申すべし、予兼々此大願有之故、諸檀林および大本山へ対して一万八千七百三十二個条の難問これ有候也、吉水の一家に限らず、九品寺の開山覚明上人等も今此の撰選本願と其本を失ひ、諸行本願杯の霊談を観経によりて弘め置れ候故、予存命の間に是も打潰さんと兼々祈る所にておはしまし候、唯如来の御本願と申は三宝盡滅の後、人寿十歳の子迄もわづか一声十声の声を尋て来迎ましまし、助け給んとの世に超へたるめでたき御本願にて候ものを、今は凡夫の力にても報土へ生れ候様に伝受の口決のと申され候段、出家はさもあらばあれ、在家の尼や女房たらん輩にすゝめられ候事、何共心得難く、かく迄も厳しく日本国の浄土宗を責立候事は偶に以て天下の万民子孫めでたからん事を思ふ計に候也』
又尚『源空上人の御滅後に色々の邪義は起り候得共、誰有つて滅後の邪義を禦ぐ御出家様の渡らせおはしまさぬゆゑ、今や源空上人に成りかはり身も命も投げ打て申す言の葉にておはしまし候、法の教も世の末々増々ひろまり参らせて、あはれ願はくはもろもろの道俗男女心の誠をとり人の交りも和らぎ御料に行れ候ひしものも尽き果て、只々目出度き忠孝の道さかんに行はれん事をのみ希ひ参らせ候』とて身自から法然上人む後継者を以て任じて居た気魂は偉大なものであつた。
更に又『空々習ふ所何れか異なるべきぞ、是も仏説、彼も正説に候へ共暫く法向の勝劣邪正を論ずる事出家はいかにも尢もにておはしまし候、今や在家の尼や女房に対して日蓮宗も改宗して念仏を申せの、或は念仏宗も改宗して題目を唱へよと御説き游ばしては今日御改事の障りに成るのみならず、在家の俗人寄合互に憤りを含み候』と論じ『七条の念願』とて
一、無益な宗旨争を息むべきこと。
二、浄土僧侶の戒行を厳守すべきこと。
三、在家の者妄りに法師と成るべからざること。
四、日蓮宗の行ふ邪呪、白狐の伝を禁すること。
五、先祖代々の宗旨改宗すまじきこと。
六、女人妄りに僧侶に接近するまじきこと。
七、俗人悪事を祈祷すべからざること(『月の光』)
此の念願の末尾に、
右八助と申は坊主が事にて候へぬ此いはれは御存の時宗と天台宗の血脈相承いたし候へ共、残らす是を焼捨候て今は坊主に似て坊主にあらぬ八助なり』と云つて居るが、此の八助とは法念和尚が事にて和尚自ら、坊主に似て坊主にあらぬ八助と名乗つて居るが、是れは彼れが赤裸々に彼自身の面目を道破顕現したものである。
法念和尚は婦女の教育に就いても意を用ゐたことは其の著書の多数あることに証せらるゝであらう。 其の婦女観の一断片として左の一節を引かう。
『さて又女中をば罪ふかくゑならぬさまに諸家よりとききかせ候得共、我朝のおしへはさにはあらず、最も皇神は則ち女神にてわたらせたもふ、是にてしりぬべし、むかしよりひへの山、高野其外霊地霊山に女人結界したもふ事仏制にはあらず霊山霊地には僧侶集りて仏事を行ひたまふ地なれば出家の色欲に迷んことを恐れて法師のいましめたもふにてこそあれ、女人のつみふかきとていましめたまふにはあらず、既に仏在世にいだゐけ婦人は五百の侍女と共にさとりを聞き八歳の龍女は南方無垢世界に正覚なし、其外三国に渡り往生を遂し女人かぞふるにいとまあらず、是にてしりぬべし』云々とて女性を正しく理解せる処は当時に於ては確かに時流を抜くの卓見と云ふべきである。
法忍和尚は、叙上述べたる如く、単なる僧にあらず、学博く、識高き一世の導師たる風キを備へて居た。 殊に謙恭な態度灼熱的雄弁を以て聴者は只渇仰の感涙を流し、説き去り説き来る者法莚恰かも人なきが如く、帰依しないものはなかつたと云ふことである。 其の帰依隨従の盛大なる為めに却つて幕吏の酷察嫉視を招いたことは死後其の墓を発き屍を刑せらるゝに到つたのである。 是れは裏面に於て痛撃をうけた宗門一派の讐仇的法難であつたかもしれぬ。 只法忍和尚の事蹟は滅後、此の酷刑が行ぼれたので何人も幕府当局を憚かつて其の真説を伝へぬ為、殆んど隠滅し去つた憾があるが、彼の英邁な殉道的精神行動は其の著書と共に厳として存して居つて、偉人法忍は百世の下猶生きて居るものである。
小石川誌料に『僧法忍といへるもの、足立郡某村に庵を結ひ、念仏修行して人を勤めけり、遠近の人渇仰少からず、夫より江戸に至り、当時境内(円乗寺のこと)に庵を結び、念仏をすゝめしが遠近の老若帰依すること前日に倍せり、示寂の頃、足立の村民柩は已の方へ取をさめんと云ひ、江戸の人はやらじと云ひで遂に訴の事起れり、させる法徳の聞えなき人を、かくも慕ふに法忍教化の術いかさま疑しとて訟へし人々はそれヽ戒められ、当時境内の法忍堂及彼石碑を発き、屍を刑せられたるは土岐信濃守殿裁許にて、時の寺僧は義超或は祐順の代とも覚へたりと什僧の語れり、こは近きことにて親しく見聞せし人も今多く存すれば、詳かなるは猶故老に問ひ記すべし』と記して居る。
坂田諸遠翁の野辺の夕露には、彼の一生涯を略述して居るか『法忍和尚墓、小石川指ヶ谷町円乗寺にあり、宝暦九年九月晦日寂、法忍は何処の人なるを詳かにせず、伝に曰ふ、幼稚の時より仏をたつとび、寺院仏堂の前を負されてすぐるに必ず礼拝す。 両親仏縁ありとて出家となす。 果して少年の時より凡庸の僧侶に異り能く僧説を解す。 且つ能く説法を為す、故に今弘法と称す。 年若くして下総国埴生郡常楽寺の廃れしを興し、諸州を飛錫して念仏を唱へ、人をよく教化す。 一たび其の説をきく者帰依せざるはなし、京都九品寺の住職となり江戸に来り病に罹り竟に寂すといふ』と記し又別冊略同様の事を記載し『宝暦九年、江戸に下り円乗寺に留錫して教化に心を盡し痢に罹り、同九月晦日年僅かに二十七歳にして遷化す、信心の徒其の不幸短命を歡きしと云ふ』と今弘法と称せもれた彼れが円乗寺内の一草堂に二十七の短命を以て大往生を告げた。 彼れ没分暁な酷吏共の滅後刑屍の法難は寧ろ彼殉道者の微笑して甘受する処であつたらう。
老友、観山が、法忍和尚に就て
『斯誉の喧しき所、誹も亦いたる、其の実を知らざる人の浮言豈以弁ふに足らんや。 たゞ終りに臨みてなを世を憂ふるの念休せざる師の如きもの近日聞ざる所也』と喝破して居るのは彼の事跡の或は晦隠じ、或は正当の理解を得ざるものを庇護し得て余りあるものといへよう。
法忍和尚は元より殉道的偉人、毀破誉褒貶を意とするものではない。
『世の人をすくはむ為めに捨つる身は、よそにそしらん名をもいみ、はず』
是れは彼れが一生を通じての彼の志であつたのだ。