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史蹟、神社、仏閣、名所 - 指ケ谷町 八百屋お七の墓(円乗寺)
八百屋お七の墓(円乗寺)
指ケ谷町百二十二番地南縁山円乗寺にある。 門前右側の石碑には八百屋お七墓所、天和会、二百卅三回忌に相当建之と誌してある。 門内左側の石の大水盤には前面に奉献と誌し、白山三業株式会吐所属芸妓、料理、待合各組合の寄進になる由を刻してある。
墓石は本堂の左、墓地内にある。 石碑は三基、阿弥陀如来の石像を刻みたるもの、角石の塔及び半ば欠損せる同じく角石の塔であつたが、今日では角石の塔一基を本堂の左側に安置して参詣者に便してある。 碑面題して
釋妙榮信女
と刻してあるが夫れである。
八百屋お七の事蹟は世間に普く知れ渡つて居るか、俗説附会の虚伝多く、真実に遠きものがある。 お七は駒込片町八百屋久兵衛の女、元和二年の春、放火の廉を以て火刑におこなはれたのであるが、初め元和元年二月の頃、丸山より出火、駒込辺迄類焼に及ぶ。 追分片町八百屋が宿も此の火災に遭つたので、円乗寺の門前に引移る。 其の頃山田某の甥に左兵衛と云ふものがあつた。 至つて美少年なるが、故あつて円乗寺に住み小姓の如く仕へて居た。 お七其の門前に住んで居る内に、いつしか此の男を見染め、双方人知れず契り交して居た。 其の間焼失の町々普請も出来、彼の八百屋も旧の住居に帰つた。 然るに、お七は親と共に旧住居に帰つたが、一たび契りし男の事思ひ切れず、相逢はんことをのみ苦心して居た所に、此辺に住んで居た吉三郎と云ふ者、此の者無頼放逸の悪者にて、無垢純情のお七に勧むるに、再び住居焼失せば元の如く円乗寺門前に住むこととなるべしとて放火をそゝのかした。 自分は其の間に乗じて所謂火事場泥棒を働かんとする魂胆であつたのである。 お七は只左兵衛に逢ひたさの一心から家に火を放つに至りしが、直ちに捕へられて国法逃れがたく火刑に処せられたのは哀れな物語りである。 此の時町奉行も裁断に当つてお七が心情の哀れなるに心を引かれ、何卒して其の一命を救はんとて当時十六歳以下は法に問はざる掟であつたので「お七、お前は十五歳であらうがIと暗に助命の意志をほのめかしたが、お七ははつきり「十六歳で御座います』と答へて仕舞つた。 夫れでも町奉行は夫れはお前の間違ではないかと推して聞くのであつたが、お七もはつきりと十六歳と答へて仕舞つたのだ。 お七幼少の時、七面様に大願成就の御礼に上げた絵馬の年齢からおして十六になること動かす可らざる証拠であるとて、お七教唆の爲同罪たる可く運命づけられて居た吉三郎は横合から執拗にも言ひ張ったので、竟にお七も、吉三郎も火刑に処せられたのであつたと云ふ。 此の事は可憐なる恋物語」として、当時江戸中に知れ渡り、後、享保の頃に至つて歌舞伎役者嵐喜代三郎、此の事を狂言に作り、降つて又寛政年中に岩井半四郎お七の演劇を舞台にのせ非常なる大入であつたので、円乗寺に石碑を建て追福を祈つた。 今日に残る石塔の一は其の当時の供養塔なのである。