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史蹟、神社、仏閣、名所 - 指ケ谷町 高島秋帆先生邸跡(附秋帆先生墓所)
指ケ谷町
高島秋帆先生邸跡(附秋帆先生墓所)
高島秋帆先生は我が陸軍改革の首唱者であって、其の偉功は載せて勝安房編纂の陸軍歴史の巻頭を幾十貝に渉って飾りてあり、東京市板橋区赤塚町徳丸原、曾て先生が洋式の隊伍を率ゐて練武をなした地、松月院本堂前の紀功の碑は千秋寓古に其の題字に書してある。「火技中興洋兵開 祖」の赫々たる英名を伝ふるものである。
秋帆先生は寛政十年八月十五日長崎に生れた。先生の家は代々長崎町年寄を勤め、荻野新流の砲術家である。天保初年長崎在住の和蘭の甲比丹デヒレ、ニューヘに就て洋式の兵制、戦略、砲術を学び、大に会得する処があった。底で先生は度々長崎奉行に兵制改革の建議をなしたが顧みられなかりたので、意志の竪固な先生は自ら進んで兵制改革の研究をなし、国家に竭さんと決心した。先生の家は職は低かつたが、家が富んで居たのであったから、其の筋の許可を得て私財を以て軍銃三百挺、狙撃猟銃五十挺、野戦砲六門、臼砲四門、榴弾砲三門を購入して門下生を教へた。天保十一年には三百の門弟を歩兵四小隊、砲兵一隊に編して訓練した。当時先生の門には長崎の諸士は元より、諸藩争ふて藩士を入門せしめて先生の教を受けしめたのであった。
天保十一年九月、先生が兵制改革の建議書、漸く当時の閣老水野越前守の入るゝ処となり、先生は門人兵器を携へて江戸に上って来たのは天保十二年三月であった。徳丸原に歩砲両隊を率ゐて演武を行りたのは其の五月であった。然るに先生の進歩的な軍制改革に反対する守旧固陋な輩 即ち鳥居甲斐守忠耀一派や、先生の盛名を嫉視し自家の失脚を恐るゝ旧砲術家逹は、百方先生を陥れんとし、種々の誹誣中傷をなした爲めに、先生は天保十三年十月長崎奉行の吟味をうくるに到り、先生の弁疏も終に其の冤を解き難く翌年江戸に召致され、謀反等の罪名を構へられ、獄 舍に繋がるゝ身となった。弘化三年七月漸く獄を出でゝ中追放となり、安部家に永預けを申渡された。嘉永六年米艦の浦賀来は朝野に大きな衝動を与へ、幕府も大に先生を用ねなくてはならぬ事を悟り、寛永六年八月先生を赦し、江川太郎左衛門英龍に引渡し、富士見宝嵐番格に召出し た。幽囚実に十二年の苦辛を嘗めたのであった。是より芝新銭座の江川氏教導の練兵場に鑑み、其の教練を監督したのである。夫より講武所師範役となる。万延二年版の有司武鑑に、講武所師範役として、高島喜平、百俵、小石川小十人丁、と記してあるのは先生の事である。
文久元年に此の小十人町の居邸火災に罹り、之に続いて配池田氏死去されたので、駒込東片町大円寺に葬った。文久二年には嫡孫太郎茂巽病歿、文久三年には嫡子浅五郎茂武、京都に於て歿した。伺れも大円寺に葬った。
慶應二年正月先生小十人町の邸にて病死せらる、年六十九。同じく大円寺に葬った先生の養嗣子兵衛は茂徳と云ふ。陸軍砲兵中佐に任じ熊本鎮台参諜長となって居たが明治九年神風速の乱に戦死した。
「小十人丁は今の指ヶ谷町百三十三番地附近で、先生の邸跡は、其の後幾変遷の後、山島馬術練習所内、山鳥氏邸であり、今日の秋本平十郎氏、池田貞逸氏宅は其の遺跡である。池田氏宅に当時の井戸あり、秋帆先生紀功碑建設に尽力せられた陸軍中将柳原昇造氏は、山島氏生存中、同氏を其の宅に尋ねた処、山島氏が邸中の井戸を指し、是れは秋帆先生御存命中より御使用のものであったと物語りしと云ふ事である。
小十人丁は幕府出仕の小役人の役宅のある爲めに名けられたもので、江戸時代の切絵図に其の地区を明示してある。即ち現今の小石川、本郷の区界を流るゝ下水の南、指ヶ谷町百三十三番地附近の一廓である。
府内備考に小十人町、馬場(八千代町四十二より四十七番地)より北の方、一丁余を隔てゝ南北の小路を云ふ。
明治以後一変水田、旧蒲田と化し今日は指ヶ谷町三業の指定地となって居る。
高島秋帆先生の墓は、本郷区東片町大円寺(ほうろく地蔵の寺)にある。大円寺墓地入口に史蹟高島秋帆墓と東京府の木標が立って居る。先生の墓所は同墓地の最も奥にあり、方域一段高き所に先生の墓を中央にして、夫人、子孫の墓が立つ、先生の墓は総高サ六尺程、二段の台石の上 にある四尺許りの方形の石碑にして、台賜流祖 高島四郎太夫之墓
と記し他に文字なし、夫人の墓碑には
荅道院殿閑宝禅香大姉
左側に
文久三年癸亥五月廿八日
享年六十歳 俗名香
孫、太郎氏の墓碑には
常賢院小嶼道通居士
左側に 俗名高島太郎源英宇制甫
号小嶼文久二年壬戌八月朔日逡
亨年二十有一歳
子、浅五郎氏及夫人の墓碑
賢徳院殿源武睛城居士
睛膀院殿紅英春林大姉
左側に
高島四郎太夫源教長子俗称高島浅五郎源武晴 明治廿五年十月廿三日
右側に 京都七本松慈厳寺碑を写し元治元年甲子七月建
其の他一族の墓石が並んで居る。
尚大円寺本堂前右側に、秋帆高島先生の紀功碑がある。是れは明治十八年十一月男爵細川潤次郎男其他が上野公園内路傍に建設したものであったが、其の後該道路の改修に際して一時同公園内円珠院構内に移し置きたるが、北豊島郡赤塚村徳丸ヶ原に先生の紀功碑を建設するに際し、其の附帯事業として是れを此の大円寺に移したのである。