旧称の地名
一口
指ケ谷町と本郷界との下水の前を古く一口(芋洗)と称へて居た。 府内備考に、指ケ谷町一丁目の書上に云、大下水前片側町通りを字芋洗と相唱申候。
築地
小石川掃除町(現称八千代町及び指ケ谷町新開の辺をいふ、府内備考に云、築地、馬場近辺八千代町四十二番、四十七番地)は後年沼地を築立し処なれば築地といへり。 と、今年暗渠を開鑿する爲めに指ケ谷町許可地内を掘下げしに地中より沼底にある如き腐堆土、茅根の腐蝕せしもの多量に出でしに見ても此の辺一帯が沼地であつて後年其の築士に成りしものであることを推することが出来る。
小十人町
山下重民氏編幕の新撰東京名所区絵、小石川の部に、小十人町は指ケ谷町百三十三番地口辺、方今新開市廈の東裏通なり、明治以後一度水田と化し、道路区割旧に復せず。 以前は幕士の居宅ありて、其の南北を通じて『此の名に呼びぬと記せり。 府内備考に云、小十人町、馬場より北の方、一丁余を隔てゝ南北の小路を云ふと記す。 前項、高島秋帆先生は此の小十人町の一部に居住して居たのであつた。
新開
八千代町より白山下に通ずる中通りは指ケ谷新開と呼んで居た。 現今では専ら中通りと呼んで居る。